劇場でアウシュビッツ強制収容所の隣に住む収容所の司令官の家族を描く関心領域を観た。
久しぶりに劇場に足を運んで視聴した。ナポレオン以来かな。
上で書いたようにアウシュビッツ収容所の隣で暮らす一家を描くという作品だが、ジャンルとしては歴史というよりかはホラーである。
それにかなり難しい、難解というかはっきり描かないことを目指した作品ゆえの分かりにくさがある。
あらすじと映画の構成
アウシュビッツ強制収容所の隣に住む所長の一家を描く。
あくまで所長の一家特に、家のまわりを描いており、収容所の様子、特に内部は写されない。音あるいは声は聞こえるが(一部強制労働の様子が移るが、収容所の外での話である)直接的な描写は全くない。
所長の家族は収容所のことを一切気にしないで日々が流れていく。とくに妻は自分の家と庭を理想の形に作り上げることに専念しており、子供たちも日々生活を送っている。
ある日ヘスの昇進が決まり、引っ越しを余儀なくされるが、妻は引っ越し拒否。ヘスは単身赴任で働くことになる。ヘスは単身赴任で働くことになるが、また昇進し、元の家に戻ることになるところまで描かれている。
ラストシーンではヘスの見ている世界と現代博物館に展示されているユダヤ人虐殺との歴史が被って示される演出がされる。
こうした日常といってもいい内容を比較的引いた構図で中心に描いていく。視聴者は家族の様子を覗くような観察するような視点で見ることが可能になっている。
原作があるらしいが、未読。
登場人物
登場人物がわかりにくいのがこの映画の難解さに拍車をかけている。
物語の冒頭や要所要所で人物を暗に紹介するようなカットがないのに加えて、カメラはあまり人物によらない。おまけに外国人の顔だと区別がつきにくいのも手伝って誰が誰かわかりにくいのだ。この部分がこの映画のわかりにくさ、難解さを際出ていると思う。そうすると難解さをあえて生み出しているともいえるかもしれない。
主に登場するのな収容所の隣に住むヘス一家。このヘス一家を中心に話は進んでいく。
ルドルフヘス
妻
息子二人
娘二人
息子か娘の赤ん坊
妻の母
召使2人くらい?ベビーシッターと同一?
ベビーシッター
がおそらく収容所の隣にある家に住んでいる。
他にルドルフの職場の人物や労働させられているらしい人物も出てくる。
主人公(どの読んで良いのかよくわからないが)ルドルフ・ヘスは以下の実在人物のようである。
ルドルフ・ヘスという日本語表記だと同表記になってしまう人物は2人存在するようである。
もう一人の方が、ナチス親衛隊の中での階級が高いので先に検索に引っかかる。(私は最初勘違いしていた)
匂わせられる収容所
前述のようにこの映画はアウシュビッツ収容所について語られた映画であるに関わらず、収容所を直接描かない。
しかし、収容所の存在は匂わされるような形で描かれる。以下ではどのように収容所が描かれているかを記述していく。この映画は周辺をなぞることで内部をどれだけ描けるかという挑戦として非常に印象深い作品になっていると言える。
音
この映画では音が効果的に使われている。それはアカデミー賞の録音賞に選ばれていることからも明らかだろう。
効果音ももちろん印象的に使われているのだが、収容所の存在を際立たせているのは収容所から漏れ聞こえてくる音である。それは人の叫び声や銃声である。
人を追い詰める怒声、恐れ叫ぶ声。こうした声が映画中では時折聞こえてくる。それは家の中であってもである。つまり、家で暮らす人々は始終その音を聞いているはずなのである。
定点観測的映像表現
この映画に特徴的なのは人物にあまりよらず、引いた視点から定点的カメラ的に移す様子である。これによって家の中では特に決まった画角のみが写される。徹底して映像的には収容所の様子を描かないのである。
この意図的な視点はどうしても視聴者に画角外のことを想起させずにはおれない。
またこの定点観測的な視点は視聴者に観測者としての視点を植え付け、登場人物に入り込むことを拒否する。冷徹な観測者となることを強要されているようであり、またパラノーマルアクティビティの映像のような恐怖映像を思わせる怖さがある。
蝕まれていく人々
登場人物の多くは異常な自体が起きている収容所の隣に住みながらもそれを一切気にせず日々を過ごしている。関心の対象外の事物に何が起ころうが気にしない、気にならないというように。
しかし、登場人物の一部は収容所の隣という異常な空間に精神や肉体の異常をきたしていく。
それが明確に描かれているのが、ヘスの妻の母である。彼女は一時的に娘夫婦の家に滞在する。ヘスの妻が手入れした庭をみて感動し、滞在する部屋にも喜ぶ。最初は収容所の隣であることなど微塵も気にせず、収容所送りになった近所のユダヤ人のカーテンが欲しかったが、別の人に奪われてしまったなどと嬉々として話すくらいである。
しかし、おそらく連日漏れ聞こえる収容所からの声や音。また、ユダヤ人の遺体を焼く焼却施設から登る火や煙、そしておそらく、匂いによって異常をきたし、ある日夜のうちに黙っていなくなる。おそらくは自宅に帰ったのだろうが、朝、召使いが起こしに行くと忽然と部屋からいなくなっているのだ。そして特にこの顛末については語られない。この淡々とした描写にも狂気を感じざるを得ない。
またベビーシッターの女性が夜に赤ん坊を泣かせるがままにして飲酒するシーンやいつまでも泣き止まない赤ん坊など、確実に精神を蝕まれつつある人々が描かれている。
川遊び
ヘスと子供2人が川遊びにでかけるシーンがある。釣りに興じるヘスが上流から流れてきた骨のようなものを見て子供たちに慌てて川から上がるように指示する。その後振り出した大雨の中帰った子供たちは体についた灰をシャワーで洗い流される。
焼却されたユダヤ人の遺体を川に流していたのだと思われるシーンだが、これもはっきりとは語られない。
焼却施設
ヘスは新たな遺体焼却設備を収容所に導入するために焼却設備を開発、販売する会社を自宅に招き説明を受ける。物語中で唐突に入るシーンだが、それまでの比較的のどかな絵面とは対照的にいかに効率的に人体を焼却できるかの説明が始まる。
果物を隠す女性
召使のうちの一人だと思うのだが、女性がユダヤ人収容者のために果物などを強制労働場所に確すシーンがある。(これが誰なのかがものすごくわかりにくい。)
2回ほどあるこのシーンが最も収容所の様子に迫った箇所である。最初は収容者が通る道にりんごを隠す(ここは収容所外のようである)。2回目は深夜に労働現場に果物を置くシーンである。
ラストシーン
ラストシーンはネタバレ的なシーンが挿入されている。ヘスのいる施設がホロコーストを伝える博物館となった現代と重なり、何が行われていたかが示唆される。
このシーンでのヘスは再びアウシュビッツに戻れることを妻に電話し、家路につく、そして階段を下っている途中で吐き気をおぼえる。この意味もはっきり書かれていないので理解がわかれるところであると思う。
以下のようなことが考えられるだろうか。
- 良心の呵責を突然覚えた
- ヘス自身も収容所の生活で心を蝕まれていた
- ラストシーンから現代に至るまでのヘスの改心があったことの暗喩
- 妻に恐怖している
- 体調を崩した
2番目と3番目あたりだとは思うが、実際のところはよくわからない。
関心とは
関心とは誰の関心だろうかいうまでもなく、ルドルフ・ヘスたち一家の関心をもっている領域を指している。
ただ、暗に見る者の関心を際立たせているという構造を持った映画であると思う。
そこでここではこの映画で関心とはどこを指すのだろうかということからこの映画を考えてみたいと思う。
ヘスの妻や子供達の関心領域(一部ヘス自身も含む)
映像そのものはヘス本人あるいは家族の関心領域を描くというコンセプトのとも撮影されている。つまり、撮影されている場所が、ヘスたちの関心のある領域であり、ユダヤ人の収容されている領域は関心のない領域、興味のない領域であるということを示している。これはが最も単純なこの映画の解釈であろうと思われる。
だから未曾有の大虐殺が行われているすぐ隣で平和に過ごしているのだ。
ルドルフヘスの関心領域
主人公たるヘスの関心領域は上に述べたヘスの家族たちと合致しているだろうか。素直に見るなら一致していると考えて良いだろう。しかし、私にはヘスの関心が収容所に向いていないというのは奇妙に映った。というのは彼はユダヤ人に対する関心がなかったとは思えない。もちろんそれが人間的な関心ではないことは明白であるが、関心がないわけでないことは映画にも描かれている。
まずはユダヤ人の遺体を焼く設備の導入に熱心であること。
次に仕事に対して熱心であり、収容所の仕事も精力的に行っている描写があること。
ナチス親衛隊として職務を忠実に行おうとしていること。
ラストシーンの電話シーンでも虐殺について常に考え続けていたことを述べていること。
ラストシーンの嘔吐は自分のしていることへの嫌悪であると考えられること。
関心を持っていないとは言えない状況である。するとここで2つの可能性が考えられないだろうか。一つ目は関心とはヘスの関心ではないという可能性。二つ目は関心とは人間性のある、人間的な関心につい指している可能性。
後者の場合、ヘス自身も他の家族と同じような関心範囲であるということであり、最も単純な解釈、世にも恐ろしい大虐殺の前に当人たちは人間的な感情を持たずに無関心で日々を過ごしていたということである。
では前者の場合どうだろうか。私の感想では真の主人公はヘスの妻であり、彼女の関心をまた領域こそが関心領域ではないだろうかと思えるのだ。
理由は上で述べたようにヘスは収容所に関心を抱いている。それが非人間的、非人道的なものだとしても間違いなく日々意識している。
一方で映画の中で主要な人物として現れながらも一貫して収容所に意識を向けない人物こそがヘスの妻である。彼女は収容所の隣という異常な環境にある家の庭を彼女好みに作り上げ、彼女自身の望み、夢をかなえる。そして彼女の夢の結晶である庭は家族の憩いの場所として、映画中多くのカットが使われている。だからこそヘスの転勤が決まっても転居に反対し、彼女と子供たちは家にとどまり続ける。
このようにしてヘスの妻こそが最も隣の様子に頓着しない、家の中にのみ興味をしめす人物である。
ヘスの妻は、あんなに他の人物が精神を蝕まれるのに全くどうじない。逆に異常な人物として描かれており、それは転勤の決まったヘスに対して単身赴任を強要する姿からも明らかである。
このようにして関心領域、すなわち、映画の中で映される領域とはヘスの妻の関心のある領域ではないだろうか。
視聴者の関心(製作者の関心)
映画のタイトルには別の関心が含まれていると言える。それは視聴者の関心はどこにあるのかということだ。それはつまり、作成した製作者の意図であるとも言える。
この映画は収容所の隣で何一つ不自由なく暮らす家族を描くことで、その隣にある収容所、ユダヤ人虐殺の歴史を描き出していることは疑いようもない。対象を描き出すにあたって、あえてその対象を一切移すことなく、その周辺を描き出すことによって炙り出すという試みである。 この試みに前述した音が効果的に用いられている。
この試みは完全に成功しており、視聴者は未曾有の大虐殺を尻目に平和に暮らす家族の姿を見ることで、その隣で起こっていたことに恐怖とともに強く意識ささせざる得ない。つまり、視聴者の関心は製作者の意図そのままにユダヤ人虐殺の歴史に向かうことになるのだ。