アルジャーノンに花束を読んだ。
感動の物語であることがよく語られる小説であり、SFの古典としても大変に有名な作品であるから以前から読みたいと思っていた。
読んでみると私が抱いた感想は多くの人のそれとは違うんじゃないだろうかと感じるほどこの小説が怖く感じたのだ。
また、この小説は素晴らしい点も多い一方であまり深い設定や考察の元に組み立てられているわけではないというのも感想の一つであるので
なぜ怖い時感じたのか書き記しつつ感想と考察を書き留めておこうと思う。
以下はネタバレありなので注意。
あらすじ
32歳になっても幼児並みの知能しかない主人公のチャーリィ・ゴードンはパン屋で働いているが、賢くなって大学で政治や学問について語り合うような人間になりたいと願っている。そんなチャーリィに願ってもない話が舞い込む。手術により知能の改善が見込めるばかりか天才になりうる治療法があるというのだ。動物実験のみがおこなわれているのものの人体実験としては初の試みでリスクはわからない。それでもネズミのアルジャーノンは手術により知能が飛躍的に上昇したのだ。
チャーリィは手術をうけ、知能は見る間に上昇する。それは常人の域にとどまらずIQ185の天才に変貌してしまう。これによって彼は願いだった学問をすることは願うどころか、周りの大学生はおろか専門家すら凌駕する知識と見識を得てしまう。そのため彼は何ケ国語も操り、様々な学問に精通し、論文を著すことになる。
望みは叶えられた一方で感情、精神的な成長はついていかず傲慢な性格に変貌してしまう。さらにこれまでの人生において人にバカにされてきたという事実や母に虐待を受けたことなど辛い真実にも気づいてしまう。また、天才になった彼は実験対象として扱われることに不満を抱きアルジャーノンとともに姿をくらます。
逃亡先で父にあったり、刹那的に生きる女性ファイに出会い、己を見つめ直すが、このころから徐々にアルジャーノンの様子がおかしくなる。そしてチャーリィ自身も過去の自分と現在の自分の人格が乖離して感じられるようになる。
自分を見つめ直し、研究者として自分を変えた手術に関する研究を行うことにするチャーリィ。その過程で恐ろしい事実に直面する。それは、チャーリィやアルジャーノンが受けた手術は飛躍的に知能を向上させるが、その後急速に知能が低下して手術前あるいは手術前よりも低い知能レベルに戻ってしまうということである。チャーリィはこの仮説を精査および回避する方法を研究するが、浮かび上がってくるのは仮説の正しさであり、回避する手法は見つからない。やがてアルジャーノンは死んでしまい、チャーリィの手で葬られる。そしてチャーリィ自身は知能が元に戻った後の自身の身の振り方を決める。少しずつ、読んだ本の内容が理解できなくなり、言語が扱えなくなり、出来ていたことが出来なくなっていく。そして、チャーリィの知能は完全に元の水準に戻り最後にアルジャーノンのお墓に花束をたむけるようにお願いして終わる。
登場人物
主人公とその家族
チャーリィ・ゴードン 主人公
ノーマ・ゴードン 妹 兄であるチャーリィを嫌う。成長した後に会い和解する。
ローズ・ゴードン 母 チャーリィに知的障害があるのとを受け入れられなかったため、様々な治療を試した。妹が生まれてからはチャーリィを見捨てチャーリィにお仕置きという名の虐待するようになる。チャーリィが本当の子ではなく拾ってきたと妹に教えていたため、ノーマへの影響もあったと思われる。チャーリィが女性に性的興奮を示すことに特におびえお仕置きを行った。物語終盤で再会するときはすでに痴呆がはじまっている。
マット・ゴードン 父 母にチャーリィに理解を示し、現実を受け入れように諭していた。お仕置きという虐待を母が始めるとひっそりと家からでて見ないようにしていた。
ハーマン伯父さん ドナーさんの親友 パン屋にチャーリィをまかせた。
大学やチャーリィの先生たち
ハロルド・ニーマー教授 心理学
ジェイ・ストラウス博士 精神科医 脳外科医
バート 大学院生 ロールシャッハテストなどを行う、アルジャーノンの知能テストも担当する。
アリス・キニアン先生
アルジャーノン 手術によって天才になったねずみ
失言かもしれないがギンピイの横領のことを話すと手術前のチャーリィを人間扱いしないような発言をする
第13小学校
ハイミイ 第13小学校の子供
ハリエット 第13小学校の子供でチャーリィが子供の頃のマドンナ
ジャンソン先生 第13小学校での先生
ガス ハリエットの兄
オスカー 第13小学校の子供
ワグナーさん 第13小学校の用務員
パン屋の人々
アーサー・ドナーさん パン屋の店主 息子がいたが亡くなった パン屋である限りチャーリィを雇ってあげると誓っていたが、クビにした。チャーリィは17歳の時からパン屋で働いている。
ギンピイ パン屋同僚 でぶ チャーリィに対して悪いやつではなかったが店の売上を横領していることにチャーリィはきづいてしまった
フランク・ライリィ パン屋同僚 のっぽ
ジョウ・カープ パン屋同僚
ファニィ・バードン パン屋の同僚 女性 追い出そうとしなかった人。
ミセス・フリン 下宿のおばさん 変化に気づいて恐る
なぜ怖かったのか
逃亡先で出会った人
フェイ 奔放な女性。芸術家。酒とダンス好き。チャーリィの恋人になる。
特徴的な演出手法
本書の最も特徴的な演出はチャーリィの文章という形態をとっていることである。この文章はチャーリィの知能向上実験にあたって経過報告のための文章として位置付けられている。そのため手術前の文章は誤字が多くひらがなばかりの稚拙な文章だが、手術を受けた後から徐々に文章が改善されていく。つまりチャーリィの文章を通じて物語だけでなく、知能の向上を体感できるような演出になっているのである。
一方でこの演出は物語の終盤、チャーリィの知能が低下していく際にも効果的に使われている。私がこの小説を読んで感じた恐怖はこの後半の失われていく課程からである。具体的にどのように怖かったのかについては後述する。
知能と感情の乖離にみるメッセージ
チャーリィの苦しみ
本書ではチャーリィに行われた手術は知能のみを向上させるものであり、感情の成長は起きないとされている。そのため、チャーリィは常人を超えた知能を得た一方で子供のころの感情のままであり、他人とのコミュニケーションが上手くできないという問題に直面する。
ここではチャーリィにおきた事象の上の説明に対して疑ってかかってみようと思う。まず、人間の感性や理性というものは感情と知能といった単純な構造で分離できないと言うことだ。人はよく人間を測る際にこの二つを取り出すが、この二つは密接に絡んでいると言えるだろう。
知能とは知識ではなく、世界を捉える理性の能力である。知識が世界を捉える助けをするだろうが、知能こそが理性の主体的な部分である。一方で感情というのは世界から自分への入力に対して想起される感性であると言える。
知能と感情は世界から自分に入力されたこと(本当は世界を五感で感知したこと)を捉える能力と捉えた結果、想起される人間の原初的な反応である。だからこそ、この両者は密接に絡んでいる。知能が変化すればそれに伴って感情の揺さぶりも当然起きるので感情だけがついていかない(多少の遅れはあっても)ということはあり得るのだろうかというのが私の疑問である。
上の議論には以下のように反駁できるであろう。例えば我々はよく直面するではないか、誰かの行為に関して理性では正しいことだとわかっているが、感情では許せないということがあるじゃあないかと。全く待ってその通りであるが、人間はなにかしらそう言った矛盾たいしても折り合いをつけて生きることができる。それはほとんどの人は経験だったり、時間をかけて他人の感情を知ることで得ていく。でもある過程で重要になるのは知性であろう。なぜチャーリィという大天才にそれが叶わないのはなぜだろうか。
現実にもIQが高いにも関わらず、生きにくさを抱えている人は多い。IQが高いこと=幸せとは限らない。
共感と愛
そこに人間にとって重要なものの答えが隠されているように感じる。つまり、人間において重要なのは知能ではないというメッセージである。
この思想がおそらくこの小説の根底にあるメッセージであるが、この小説ではあまり押し付けがましくそれを打ち出さない。最後もあまりにもソフトランディングな終わり方のため少しぼやけている気がする。
私の個人的な見解としてはこの小説が説く人間に重要な要素とは他人を思いやり、認め、共感する能力、心を開いて融和する能力である。
これは、実はチャーリィは初めからこれを持っていた。それは彼の純粋さゆえである。知能が高くないからこそ持っていたかけがえのない能力であった。彼の思いやりと愛はあまねく世界に向いていたのだ。彼が得た知能は彼のその能力を歪めてしまった。しかし、彼は残酷にもその知能を失う過程で歪みがなくなり、思いやりと愛を取り戻すことになる。それは最後の一文
ついしん、どーかついでがあったらうらにわのアルジャーノンのおはかに花束をそなえてやてください
に表れている。
チャーリィには原罪がないのか
チャーリィは知能を得ることで喜びをある反面で多くの苦しみに気づいてしまう。また、手術前のチャーリィが持っていた思いやりが失われて傲慢な人間になってしまう。
これは考え方によってはチャーリィは元々、知恵をもたぬ無原罪の人間であった。そのため理想的な人間性を有していた。しかし、手術という名の知恵の実を食べてしまった。知恵をえた代わりにチャーリィは引き換えとして苦しみを得た。というように考えられないだろうか。
実はあんまり考えられているわけではないのではないか
上のように書いたが、この本は名作とは言われて人間の重要な部分に触れている作品であることは分かる。しかしながら何か根底に流れる強い思想があったり、知能や感情の関係に関する深い考察の元に書かれているわけではない。と言うのが私の感想である。
チャーリィと母
チャーリィの苦しみは上で述べたように知能と感情の乖離。感情に折り合いをつけられないことに起因していると文中ではよく表現されるが、文を読む限り母親の虐待が関係していると読んだ方が良いと感じた。ただし、これは作者が意図したものとはあまり思わない。前に述べた通り、こういった点において作者はあまり深く考えてないと感じるからだ。以下はこう言った読み方があってもいいのではないかという私見。
チャーリィはマットとローズ夫妻の間に生まれてしばらくたってから知能発達の遅れを認められた。ローズは当初我が子チャーリィの知的障害を受け入れられなかった。そのため様々な治療法を試した。また、チャーリィにあなたは必ず論文を書くような人間になるということを教え諭していた。チャーリィが学問に憧れていたのもこれが原因であると考えられる。しかし、望はむなしくチャーリィの知能が向上することはなかった。このころからローズはお仕置きとした、よく言えば厳しい罰を伴う教育法だが、それは一種の虐待であった。
妹のノーマが生まれるとローズの期待はチャーリィからノーマに移った。するとチャーリィへの当たりはより厳しくなる。ノーマばかりに期待をし、チャーリィには裏切られたと言わんばかりに辛く当たった。我が子ではないというようなことをノーマに吹き込んだ。それのチャーリィへの仕打ちはノーマにもうつり、ノーマもチャーリィに辛く当たった。
チャーリィがある程度大きくなってからローズが特に恐怖したのはチャーリィが性犯罪を犯すことであったらしい。チャーリィは男女の関係など知る由もなかったが第二次性徴や女性に対して性欲を抱くことはあったようである。(ただし、性欲に対して理解はできてないと思われるが)それは、女性をみてあるいはノーマやノーマの友人をみて勃起するという形で現れていたようだ。これを特にローズは厳しく罰した。しかし、チャーリィとしては罰の意味がわからなかったろうし、虐待に変わらなかったろう。
一方のマットはローズとは異なり、チャーリィに一定の理解を示していた。ローズに対してチャーリィの障害を理解するように諭していた。しかし、虐待に対してはあきらめていた。
このローズのチャーリィへの仕打ちがチャーリィの足枷になった。キニアン先生に恋した際に彼女とセックスできなかったのはこの虐待が原因だと考えられる。知能が向上したチャーリィを阻んだものそれは母親からの歪んだ愛情であった。
なぜ怖いと感じたのか
怖いと感じた理由は物語終盤でチャーリィが知能を失っていく過程である。前述のようにチャーリィ自身が書いた文章として物語が進む。そのため、文章が再び子供が書いたような文章に変化していく形としてチャーリィの知能が低下していく過程が描かれている。これは前半にチャーリィの知能が向上していく際に子供のような文章から誤字が減って漢字が増えていく過程と逆の過程である。しかし、前半に見せられた演出の効果もあいまってより、ドラマチックにチャーリィの絶望を表現しているといえる。
私はこの表現を私の祖母に重ねてしまった。私の祖母は晩年、認知症になった。認知症なると特にその症状が進んで行く際にいわゆるぼけるときと正常なときが交互におきるという。いわゆるまだらぼけと言われる。祖母はレビー小体型認知症であったからまさにその認知の波があることが特徴のようである。
祖母の症状はまさにこれが当てはまり、時折り、認知能力が戻った際に自分の行動を思い出すのか私はおかしくなってしまったのかしら。と言っていたりそのときの恐怖たるやチャーリィのそれに近いのではないかと思うのだ。自分が自分でなくなる、その喪失過程をある程度実感、そして客観視できるというのは非常に恐ろしいことではないだろうか。
これがこの小説に私が感じた恐怖である。チャーリィ自身が書く報告書の内容が徐々に変化していくと言う演出の元にチャーリィの絶望ややるせなさを感じざるを得ない
人間愛の物語になぜなり得ないのか
この小説は涙けるという触れ込みのもとに紹介されることが多いようである。私には泣ける物語にはなっているとは思えずネットで感想を読むと感涙した人もいる一方で泣ける話と感じなかった人も少なからずいるようである。
私もやはり泣けなかった人間であり、上述のように怖さを感じたのだ。ここではなぜそういった意見の違いが生じるのか考えてみたい。
ラストにてチャーリィは最後同情を嫌がり孤独を選んだ。チャーリィは自分の知能が完全に元に戻る前にウォレンに向かう選択をする。それはキニアン先生に同情されたくなったからだ。この選択は読者にカタルシスをもたらすが、一方でチャーリィが心を開けた人間(対象)はアルジャーノンだけだったと感じさせる悲しい結末である。キニアン先生にも結局心を開かなかったということは悲しい。人間愛には遠いところにあると感じる。
次にメッセージ性が弱いことがあげられる。この小説の面白い部分はチャーリィの経過報告という形をとることで読者に知能の変化を文の変化として体験させるところにその本質があり上述のように根底にある強いメッセージには薄弱であり、知能という物に対する深い考察や人間関係に対する作り込みはあまり感じられない。それがこの小説があくまでSFの名作の一つと評される理由なのではないだろうか。(これはSFを馬鹿にしているわけではないので注意していただきたい)人間の普遍的な原理に近づいた作品ではないというのが私の見解である。
とは言え、表現方法、チャーリィの恐怖と自分との最後への結末の付け方はSF名作の一つと呼ばれる理由に足ることがよく理解った。