があらんどう

伽藍洞です。

MENU

三柱鳥居の謎の地、太秦に行く

三柱鳥居という柱が三本ある世にも珍しい鳥居があるらしい、ということを知ってからずっと見に行きたかった。

太秦の木島坐天照御霊神社にあるということで太秦に行ってみた時の記録。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/c/calciummm/20240521/20240521173813.jpg

京都博物館へ

河原町に降り立って最初は太秦とは正反対方向の京都博物館に徒歩で向かった。
これは火焔式土器が見たかったからなのだが、特別展をやっており、常設展は観ることがかなわなかった。
https://maps.app.goo.gl/ruSHxiB3mzGy8YJ3Amaps.app.goo.gl


常設展の建物に入ってみたかった。建物がまずかっこいいよね。


とりあえず特別展、茶の湯を観る。

木島坐天照御霊神社にいくには嵐電に乗りたい。嵐電大宮駅までは京都博物館からは距離がある。
嵐電の大宮駅まで歩きつつ、歩き途中の場所を見ていくことにした。


歩いて西本願寺まで歩く

ちょうど紅葉の季節だったので、境内の銀杏が綺麗だった。


清宗根付館で根付を楽しむ

西本願寺からさらに北上して壬生寺となりの京都清宗根付館を目指す。
途中に色街の島原を通る。(島原 (京都) - Wikipedia
誠の湯というスーパー銭湯が見えてきたので昼ごはんのついでにお風呂に入ることにした。風呂に使ってから昼食を食べる。

休日という感じがしてきて肚の底から喜びのようなものがフツフツとわいてくるのがわかる。一杯やりそうになるが、まだまだ先は長いのでお酒は飲まない。
https://maps.app.goo.gl/rjuoNVqo6QL3FkXcAmaps.app.goo.gl


誠の湯を出て根付館に向かう。私は根付が大好きなのだが(一応自分でも所有しているほど)、ここは何回行っても楽しめる。
建物もいいし、そこまで混んではいない。ずっと眺めていられる根付が大量に展示されているのだ。
https://maps.app.goo.gl/rPYguUDerehoHSVF6maps.app.goo.gl


嵐電蚕ノ社駅

四条大宮駅につく。

ここ四条大宮駅から嵐電にのって蚕ノ社駅まで移動。
蚕ノ社とは木島坐天照御霊神社の別称らしい。


三柱鳥居を見に木島坐天照御霊神社へ
嵐電蚕ノ社駅で下車する

ja.wikipedia.org

蚕養神社と書かれた鳥居が。

しばらく歩くと神社が見えてきた。

由緒がきなどがある。

蚕の社や三柱鳥居のことについても書かれている。

参拝してタイトルの三柱鳥居についても見たのだが、確かに不思議な形。
鳥居が三つ組み合わさって三角形を作るような形をしている。
直観としては神域をまもる結界、神域との境界を示すような2次元的装置のような気見た目であった。

天照御神社の御祭神は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、大国魂神(おおくにたまのかみ)、穂々出見命(ほほでみのみこと)、鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)、瓊々杵尊(ににぎのみこと)
ここで大国魂神以外はすべて皇祖神である。
延喜式神名帳には見える神は一座であり、天照御魂神を祀っていたようである。
いつ上の神々に変化したかはわからないが、いつの間にか元の神様が判然としなくなったのだろうか。
wikipediaの記述には松前健 『日本神話の謎がよく分かる本』を引用した上で天照大御神とはkとなる太陽神信仰だと指摘している。
後に書くように秦氏キリスト教を信仰していたならばヤハウェのことになるのだろうか。
ただ、ヤハウェに太陽神としての性格はあるのだろうか、聞いたことはない。

蚕の社こと養蚕神社については秦氏に関する由来が書かれている。
秦酒公(はたのさけのきみ)のことについて言及がある。
秦酒公は日本における秦氏の中興の祖みたいな人物のようである。
秦氏は渡来系民族であったから日本にはない最先端技術を持っていた。
各豪族がそれぞれ秦氏を囲い、その技術の恩恵にあずかっていたものを秦酒公は天皇に願い出て秦氏をまとめ上げた。
そして多くの調などを納めて禹豆麻佐の姓を賜ったのはご由緒にもあるとおりである。
ja.wikipedia.org

秦酒公は5世紀後半の人物であり、由緒にある通り第21代天皇である雄略天皇の時代の人のようである。
雄略天皇の在位期間が西暦456?-479?年である。
蚕養神社ができたのは第33代の推古天皇の時代であるから、これまた秦氏の有名人物、秦河勝創建ということになるだろう。
また推古天皇の在位期間が西暦593-628年であるから雄略天皇の時代と100から150年くらいの間がある。
秦河勝自身は第31代の用明天皇(在位585-587)の時代から活躍していたようだが、一世代が30年としても秦酒公から3-5代は離れていることがわかる。
ja.wikipedia.org

ところでご由緒にある、「秦酒公呉国(今の中国南部)より漢織、呉織を召し」とあることから秦酒公はちらばった秦氏をまとめただけでなく、織物工を呉の国から呼び寄せた、召し抱えたということだ。
ということは中国南部になにかしらのコネクションがあったということになる。
それは自らもっていたコネクションだけでなく海を渡る技術も必要になるから海人系氏族の力も借りたのかもしれない。
すると秦酒公はみずからの渡来系であるというバックボーンを活かして絹織物などの生産量を増やすための一大プロジェクトをやってのけた人物ということになるかもしれない。

秦氏は謎多き氏族としても知られている。
前述のとおり渡来系であることはよく知られているが、秦氏の祖とされる人物は弓月公(ゆづきのきみ)と呼ばれる人物で第15代の応神天皇のころ百済から渡来した。
応神天皇の在位期間は西暦390?-430?年であり、弓月公が日本に来たのが即位14年のときだから404?年くらいになる。
すると弓月公は秦酒公から60-80年前くらいの人物になるだろうか。
秦酒公は実在性が明確なようなのにおそらく3-4世代前の人物は伝説的な人物になってしまう。
古代のことであるし、資料の関係上そうなってしまうのだろう。

弓月公は百済から来たということであるが、秦氏は自分達は秦の始皇帝の末裔であるという名乗っていたという話もある。
これは新撰姓氏録にも記載されていることらしい。
秦国の末裔だから秦という氏になるのも奇妙なことである。
秦の始皇帝の名前は嬴政(えいせい)であり、姓は嬴であるから末裔だとすると変である。
一旦それを飲み込んでもしも秦の始皇帝に関係する氏族だとすると、秦朝の滅亡が紀元前206年であるから弓月公が渡来した600年も前のことであり、それまで血筋を保っていたのなら並大抵のことではない。

秦はもともと中国の北西部だから、現在のウイグルやモンゴルの民族である可能性があるだろう。
ここら辺は詳しく調べていないが、チベット系の羌族説などあるらしい。
当然、漢の成立以前なので漢民族という概念はないし、華夏族という概念からも遠い土地である。
すると現在の中国人のイメージとはかなり違う民族だった可能性もある。

すると秦氏もいわゆる中国人のイメージではなくもっと西の部族だった可能性がある。
そしてご由緒の三柱鳥居にあるキリスト教ネストリウス派つまりは景教を信仰していたのではないかといった話につながる。
(なぜ三柱鳥居が景教につながるのかは調べてもよくわからない。、いったんそこは受け入れるものとする。)
コンスタンティのノポリス大教主のネストリウスが生きていたのが381年?-451年?であるから弓月公と同年代からむしろこちらの方がはやい。
つまり、弓月公が景教信者というのは無理がある。
日本に景教が正式に伝わったのは700年くらいだとされているので秦河勝の時代よりも後のことである。
となると創建当時からこの三柱鳥居が景教由来のものとして造られた可能性は低そうだ。

あっという間にいきづまってしまったが、別の角度から書いてみる。
弓月公は秦の始皇帝の血も引く中央アジアの国の人々であるという考え方だ。
弓月国というカザフスタンシルクロードの北方にあった国であり、そこから来たのが弓月公であるということである。
そして弓月国ではキリスト教が信仰されており、古代日本にキリスト教が伝来していたということである。

もしもこれを受け入れるとすると古代にキリスト教が伝来しており、秦氏はそれを信仰する渡来集団であった。
つまり神としてのヤハウェを信仰していた。
その神殿として秦氏関係の神社が造られたということになる。
三柱鳥居と景教キリスト教の関係性と論拠がよくわからないので創建当時からのものかわからないが、途中で正式に伝来した景教がその宗教の同一性からあとから一緒になったことは考えられる。
日ユ同祖論まではちょっとわからないが、こう考えるとロマンがある。

よく指摘されることだが、聖徳太子こと厩戸皇子の出生譚はキリストのそれとよく一致している。
厩戸皇子出生時にキリスト教が伝わっていた可能性もあるし、あるいは厩戸皇子記紀に編纂されるときにはキリスト教が伝わってきており、関係者がエピソード的に入れ込んだのかもしれない。
記紀が編纂されたのは8世紀初めくらいだからそのころには十分に景教は伝わってきている。

現代の人々は古代の人々をあながちがちであるが、古代の人の技術や拡散力、体力はすさまじく日本人に祖先である人たちは海を渡ってきているのだ。
現代では考えられないような小舟で海原を渡ったり、大地を踏破してきている。
小規模な形ならばキリスト教などが伝わってきていてもおかしくはないのかもしれない。


元糺の池に関する記述も興味深い。
下鴨神社糺の森にある(新)糺の池に遷してから元糺と呼ぶとあるから、元糺の池と呼ばれる前は糺の池だったのだろう。
糺というのは由緒書きの解説にあるように正しくなす、誤りをなおすという意味だけでなく、禊の意味も含まれているのだとすると現在の糺の池にはそのような意味は含まれているのだろうか。
あるいは失われているのだろうか。
糺の森で調べると只洲から転じたような記述も目にするが、これは下鴨神社あたりの三角デルタ地帯を表す洲のことだと思われる。
しかし、この由緒に従うとそれは誤りであり、神池の名称が由来だということになるだろう。
只洲は後付けの洒落であろうか。
と思って調べてみると、以下のコラムには特に元糺の池について述べられていない。
tadasunomori.or.jp
糺の池と糺の森の名づけに相関がなく、別由来で名付けられていたとしたら筋は通る。
と思って調べるとwikipedia京都市埋蔵文化財研究所の引用つきで元々は蚕ノ社の森を糺の森と呼んでいたと記述してある。
https://www.kyoto-arc.or.jp/news/chousahoukoku/2002-15zhonbun.pdf

調べているとわかったことわからないこと、疑問などがでてきて書きたいことがあふれてきてしまうのでこれぐらいでやめておく。
本当は大酒神社(未参拝)とか太秦牛祭り、摩多羅神のことなども書きたくなってきているので機会があったら。

広隆寺

近くにある広隆寺にも参拝した。
仏像も好きなのだが、今の今まで広隆寺には来たことがなかった。

有名なのは国宝第一号の弥勒菩薩半跏思惟像。
教科書定番の仏像が見れるというのもどこか感動なのだが。
やはり美しさもピカイチでずっと眺めていられるような気高い佇まいである。

秦河勝創建のということもあって秦河勝夫婦神像もある。
これも教科書かどこかで見たことがあるが、秦氏ゆかりの土地というのをひしひしと感じさせてくれる。
古代の歴史のミステリーとして秦氏とはいったい何者なのかが語られるが、私はこういう話が大好きである。

また聖徳太子縁のお寺だけあって聖徳太子孝養像などもある。
太子の特に子供の時の姿を彫った像もある。
若宮と名前のついた神社でもそうだが、子供の姿というのは強い神通力の働き、強い生命力みたいなものを表していると聞いたことがある。
子供の成長やエネルギーの発露みたいなものを生命の強さ、人間、自然の力強さへの畏怖の念であろう。
それだけ聖徳太子の霊力みたいなものに畏れを抱いていることがわかる。

また、有名ではないようだが、私は如意輪観音像がえもいわれぬ美しさであると感じた。

この点からもいきたかったのが太秦寺そして広隆寺であった。




京都太秦は今まで来たことがなかったが、秦氏の匂いが強くする土地だということが鮮明に感じられた。
古墳なんかも多いらしいので今度は古墳も見て歩きたいものだ。