があらんどう

伽藍洞です。

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エルデンリングを都都逸で詠むという狂気

なぜエルデンリングを詠むのか。

エルデンリングは重い。
陰鬱で、荘厳で、血と腐敗と執念にまみれている。
そんな世界を、あえて「都都逸」と「川柳」で詠んでみたくなった。
理由は簡単だ。
このゲームは、あまりにも“情念”が強すぎるからだ。
情念は、短い詩形にすると剥き出しになる。
武器も魔術もいらない。
七七七五と五七五だけで十分だ。


序章

エルデンリングは壮大だ。
だからこそ、短い言葉にすると歪みが露わになる。

都都逸も川柳も、
世界を縮める装置だ。

狭間の地は広い。

だが、
七七七五にすると、
急に人間臭くなる。

狭間の地を別の視点から楽しもうじゃあないか。

第一章:かぼちゃ兜の狂兵という存在


聖人橋の
たもとを見れば
狂いかぼちゃが
腰をふる

聖人橋の荘厳さと、「腰をふる」(ように見える)という俗な動作の落差。
エルデンリングの魅力は、崇高さと滑稽さが同居しているところにある。
かぼちゃ兜の狂兵。
恐ろしい存在だ。だが、どこか間が抜けている。
狂兵。狂った兵である。恐怖の存在だ。
にも関わらず、かぼちゃ兜はどこかかわいらしい。
彼の行動はなぞだ。
遠くから眺めると時折、腰を振っているのような狂った姿を我々に見せてくれる。
彼は狭間の地ではかわいらしい存在なのだ。

第二章:霜ふみ


写し身と
挟んでしこしこ
霜をふみ

写し身とは、孤独の裏返しだ。
自分と同じものに背中を預けるしかない世界。
霜を踏む音だけが、確かな存在証明になる。

その圧倒的な強さから弱体化してしまった「霜踏み」。
これがなければ私はマレニアに勝つことはかなわなかっただろう。

第三章:フィアという情念装置


円卓の
指導者
名乗る
フィアちゃんに
抱かれてみれば
魔術師の
風俗狂いに
親近感

エルデンリングは、欲望の物語だ。
力への欲望。
救済への欲望。
フィアはそれを象徴している。

抱擁はバフだ。
だが同時に、弱さの告白でもある。
だからこそ、「魔術師の風俗狂い」に妙な親近感が湧く。
狭間の地では、誰もが何かに依存している。

第四章:腐敗と武士


腐りババアの
水鳥乱舞
面影見せる
弦一郎
>

マレニアの水鳥乱舞を見た瞬間、思い出すのは弦一郎だ。
あの理不尽。
あの「覚えろ」と言わんばかりの攻撃。
フロム作品は常にプレイヤーを鍛え直す。
腐敗も雷も関係ない。
結局、問われているのは「お前は覚悟があるか」だ。

弦一郎にもマレニアにも一体何回敗れただろうか。

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なぜ今エルデンリングなのかー結びに変えてー

以下に示す、都都逸、川柳は数年前にエルデンリングが発売された直後、数人ではまってゲームをしていたときに作ったものだ。
そのときは、ゲームをやるだけでは飽き足らず、ストーリーの考察をして相関図をまとめたりしていた。
ストーリー考察は一緒にやっていたメンバーに披露したり、議論しあったりできた。
しかし、さすがに都都逸は披露できなかった。(たぶん都々逸ってなに?ってなるだろうし)
この深すぎる業を数年ぶりにひっぱりだしてきてブログに昇華しようという試みなのだ。