があらんどう

伽藍洞です。

虫眼とアニ眼でひどい眼にあった

ひどいめにあった。
虫眼とアニ眼という本である。私は本を読んだだけなのだが、何とも腹立たしい本だと思わざるをえなかった。
養老孟司氏と宮崎駿氏の対談本である。


この本でなぜひどい目にあったのかというと、素直に、ただ純粋につまらないの一言である。大変失礼ながら紙面からひしひしと音がするぐらいお二人の老害感を感じられる本である。

なぜ純粋なつまらなさ体感できたのか詳細を述べるのは後にして、まずはなぜこの本を手に取ったのかという経緯から書いておこう。一言でいうと最近私はジブリづいていたのだ。公開されたばかりのとき見に行った「かぐや姫の物語」(これは高畑勲監督作であるが)をもう一度見ることができて、その名作ぶりに驚いたのだ。この感動を胸に「ハウルの動く城」「となりのトトロ」「もののけ姫」「紅の豚」「千と千尋の神隠し」「コクリコ坂から」とジブリ作品を見た。この中にはすでに見たことのあるものもあれば、初めての作品もあったのでるが、大半は楽しく視聴できたのである。残念ながら「かぐや姫の物語」ほどの感動は得られなかったが。

さらにジブリづいていたこととして三鷹の森ジブリ美術館にいったのだ。行きたいと大学生のころからぼんやり思ってはや何年かはわからないが、ついに入館することができた。(この感想は別の記事にしたい)
こんなにジブリづいてくると本も買ってしまうものだ。引っ越しの際に手放してしまった飛行艇時代や雑想ノートがもう一度読みたくなり、近場の本屋さんを何店か仕事終わりに一週間かけてまわり手に入れた。

こうしていよいよ熱おびてきたジブリ欲に私は活字本も手に出させた。宮崎駿高畑勲の活字本はたくさんあるのだが、なぜか私はその一冊目として表題の「虫眼とアニ眼」を選んだのである。思えばこれが大きな間違いであった。

この選定には理由がある。一つはイラストが載っていた記憶があったこと。もう一つは対談本であるということだ。

まずは一つ目だが、文庫版が出版されてすぐのとき、裏付けをみると2008年、に本屋さんで平積みされていたのを手に取ったのだ。パラパラとめくると冒頭に宮崎駿の絵がカラーで数ページ載っている。ほーっと思いながら絵を眺めて閉じ、本を元に戻した。その時の私は上で書いたようなジブリ熱がなかったのでそのまま買って中を読むことがなかった。

二つ目は対談本という形式ならば気軽に読みやすいのではと思ったのである。

心の中で選定を終えてからやはり私は近所の本屋を何店か仕事終わりに一週間かけてまわった。しかし見つからない。飛行艇時代を置いてあった大きな本屋さんにもない。2008年出版の本なら仕方がないだろう。あきらめてAmazonで注文することにした。

すぐに届いた本を開いて読んでみた。イラストを10年以上ぶりに眺める。やっぱりわくわくさせる絵だと感想を抱きつつ眺める。イラストに添えられた文も読む。やはり思想強めだよな、映画ではあまり気にならないのに、と思いつつ。楽しみ見つつ読む。子供が好きだよね、病を感じるくらいに、と思い眺める・・・。

疑問がうかぶ、なぜこの方は子供に無条件に愛されると思っているのだろう、と。イラストは自分が理想とする街づくり、家づくりに関するものなのだが。自分あるいはそれを投影したご老人の周りに子供があふれているのだ。もちろん老若男女が暮らす街づくりというコンセプトである。その点はいい。しかし、イーハトーブ町という彼が理想とする街(宮沢賢治好きなんだねえ)には子供たちが侵入してくくるホスピスが存在し!、さらに子供たちが泥団子をもったりして遊びにくるのだ!こんなことあり得るだろうか。自分の祖父母でもなんでもないホスピスで暮らすご老人を気軽に見舞う子供たち、こんな光景がありえるだろうか。あるいはそんな子供たちが理想だといっているのだろうか。私の感覚では理解できない。もしかしたら、ご老人と子供には血縁関係があるのかもしれない。しかしイラストを見る限りそうではないような気がする。

そんなことあり得ないと私の感性で切り捨ててしまっては失礼なのでもう少し考えてみた。子供たちにとって、少なくても私が子供時代だったときにどんな大人が魅力的であったか思い出してみる。それは子供目線で物事を見れて、遊んでくれる大人であったと思うのだ。自分たちの見えている世界に近い視線で物事をとらえて、ほんの少しその世界を広げられる大人に出会いたいと思っていた。いたずらや少し悪いことも教えてくれる兄貴的な大人である。それは管理者然としていない大人ともいえるかもしれない。こうした大人、ご老人になら子供がなつくかもしれない。

こういった、いわば対価がなければ子供たちもお見舞いにこないと思うのだ。ましてや血縁関係のないご老人のところになど。宮崎駿氏なら可能なのかもしれない、絵でこれだけの子供たちを魅了してきたのだから。しかし大半の大人にとっては不可能だ。だって子供時代に魅力的な大人ってどれほどいたでしょうか。どの時代も希少な存在だったと思うのだ。

私の抱いた違和感は、なぜこの人は無条件に子供から愛されることに疑問を抱かなないのだろうかということだった。子供は天使でないどころか、時に大人より残酷だ。自分にとって価値のないものは存在しないに等しい。こうした無情な価値観すら持つ子供に私は愛されていて、死の床にあっても気軽に子供たちが遊びにくるのだ、という一種の傲慢さをイラストから感じ取ったのだ。

大変な批判をしてしまったが、イラストそのものは大変すばらしく、こんな街に私も住みたいと思ってしまう。それだけは間違いない。

さて、ながながと冒頭数ページのイラストで語ってしまったが、私がひどい眼にあったと感じた本文にようやく到達した。何に不満をもったかと一言でまとめると生ぬるい対談だということになるのかもしれない。イライラして半分くらいで読むのをやめてしまったのですべて読んだ感想ではないことを先に述べておく。

この対談は基本は養老孟司氏が聞き役に回ることが多く、主に宮崎駿氏の語った文章が掲載されている。一応編集者みたいな人が話を回しているのだが、読んでる分にはあってもなくてもあまり変わらない働きである。

まず読んで感じるのが、お二人がうわべだけで合意しているようにしか見えないことだ。話が薄っぺらいところで終わっている。対談といいう仕事を完遂させる以上ひつようなことだろうが、これが、つまらなくさせている大きな原因だろう。お互いがしゃべったことに関してほんとにあなた同意していますか。と聞きに行きたいくらい上っ面な相槌と仮初の合意のもと話が展開されている。お互いのしゃべっていることを本気で理解しつつ進めた場合、大喧嘩して終わるのではないか、この対談、と思わせてくれるしょうもなさが終始ただよっている。いっそ大喧嘩して言い合いしてくれた方が良いものができそうだ。

個人の感想で世の中を切るのは楽しいですか、と直接聞きたくなるくらいデータや根拠を示さない持論が展開されるのも大変私をイライラさせてくれた。大上段で世の中のことを語るのだが、その根拠がまったくないのである。社会学的ば本ではないから仕方ないのだろうが、ほんとに?と聞きたくなるような話がなんの前提も根拠もなく垂れ流されていく。宮崎駿氏は学者ではないからいいのだけれど、養老孟司氏はそれでいいのだろうか。学者ですよね。対談という形式上仕方ないじゃあないかという気もするけれど、その責任をなくした学者って所詮ニュース番組のコメンテータと一緒だと断じざるをえない。

そういえば養老氏って学術的な成果はどういったものがあるのだろうか。少し調べても記事しかでてこないからわからないけど。

読み進めてはたと気づいたことなのだが、宮崎駿氏というのは論理的な思考ができない人なのだろう。人口に膾炙した言い方だと右脳的な働きが強くて、かっこいいイメージがぶわーっと展開していい作品ができるのだろうが、論理的にストーリーや物事を組み立てることはおそらく苦手なのだろう。だからおそらくこの対談で述べていることも最近の自分の中にたまっている怒りや不満やルサンチマンをそれっぽい切り口で述べているだけで、一年たったら別のことをいっているのではないだろうか。そう考えると根拠のない語りも理解が及んできて少し私のイライラもおさまった。しかし、通読するには面白さが足りない。

思えば対談本という形式は良いものができる舞台なわけがなかった。良いものと良いものを混ぜれば素晴らしいものができるわけではないのだ。対談本は安易に手を出すべきでないというのが今回私が得た良い教訓であろう。

冒頭で述べた高畑勲監督の「かぐや姫の物語」について公開当時は駄作ぶりに唖然としたのに、10年たったら傑作だと言っている。そんな自分も自分である。この本も10年後読み直したら腑に落ちるのかもわからんね。
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