があらんどう

伽藍洞です。

奈良南部徒歩ツアーpart2

part1では長谷寺周辺を巡った。あまり文章には表れていないかもしれないけどここまでもそれなりには歩いている。
ただ、奈良南部徒歩ツアーの徒歩たる所以はここから。
奈良南部を気のままにあるいた記録。

part1はこちら
calciummm.hatenablog.com



長谷寺駅から大和八木駅まで電車で移動した後、目標は藤原京跡。というのは季節が秋で藤原京でコスモスが見ごろだと知ったからだ。

大和八木から藤原京を目指す間に八木 札の辻という場所を通りかかる歴史的な景観の残る地区のようだ。


特徴的な山があるなぁと思っていると大和三山耳成山だったようだ。

風景がどんどんのどかになっていく。
特に耳成山の南を通る近鉄線を渡ると人家もまばらになってくる。


こうしてみると奈良盆地が以下に平地なのか実感としてがよくわかる。建物がなければ見晴らしがものすごくいいし、ここに「国作ろう」ってなった先人たちの気持ちはなんとなくわかる。
平地をひたすら歩いているとついに見えた。藤原京だ。

跡地内部にも説明書きがある。

目的のコスモス畑にいくとたくさんの方が鑑賞に訪れていた。

遠くに見える山は大和三山畝傍山だろう。

秋空にコスモスが映える。

藤原京からさらに南下していく。次なる目的地は甘樫丘だ。
流石は奈良少し歩くと旧跡に出くわす。

紀寺跡 | 明日香村観光ポータルサイト | 旅する明日香ネット
小山城跡はうっそうとした竹林に覆われているので最初は古墳かと思った。こんなところに城跡があるとは全然知らなかった。検索してもあまり情報がでてこない。

さらに南下していくと甘樫丘の手前に雷という地名に行き当たり、雷丘という丘の立て看板も。

関裕二氏の本を読んでいたのでこの地名にはピンときた。少子部蜾蠃ゆかりの地ではないかと。(少子部蜾蠃 - Wikipedia)知らべるとやはり、栖軽が雷神を捕まえたところであるようだ。
ja.wikipedia.org

雷丘から少し南に下ると甘樫丘がある。登ってみた頂からの様子がこちらの写真だ。


そこまで高い丘ではないのだが、周りの平地の様子がよくわかる。大和三山もよく見える。(写真の中央が畝傍山)古代からきっとこの甘樫丘からの眺めは奈良南部の様子をよく観察することができたろう。きっと古代の人々もここからの景色をみて国造りをすすめていったかと思うとなにやら感動するところがある。

甘樫丘をくだって今度は飛鳥板蓋宮跡に向けて南東方向に歩く。

飛鳥宮跡(伝 飛鳥板蓋宮跡) - 公益財団法人 古都飛鳥保存財団|日本人の心の故郷『飛鳥』
中大兄皇子中臣鎌足によって蘇我入鹿が暗殺された乙巳の変の場所である。中学生の歴史で習うほど日本古代史の一大事件である、乙巳の変そしてそれにつづく大化の改新、それの始まりがここで起きたというのはピンとこないほど何も残されていない。私の目には遺構がかすかに残るのみである。ただ、この驚きほど小さい遺構の中で古代の人々が確かに生きていたこと、その歴史がわずかなりとも現在まで伝えられてきていることを感じざるを得ない場所である。
眼で見て驚く場所でない、だからこそあまり人もいないので飛鳥の地を感じるには良い場所だと感じた。

ここからは一転北上して酒船石遺跡を目指す。
ja.wikipedia.org

ここの亀形石造物も見てみたかったのだ。お金を払ってはいると説明の係の方が他のお客さんたちに説明をしていた。お客さんのうちの一人が「これだけなんですか」と驚きを声にする。確かに見学料300円が必要なわりにはこれだけと感じる人もいるだろうという遺跡だ。がっかり観光地という言葉が頭をよぎる。
それを受けて係の方が返答する。「確かにこれだけと、思ったより小さいというご意見はよく聞きます」と。続けて「ただ一方でこれが見たかったんだということで遠方からいらっしゃる方もいて~」

ここまで評価が分かれる遺跡というのも珍しいと思いつつ、説明の方の話から意識を遠ざける。確かにこれが見たかった側の私も最初に感じたのは、小さいという感想であった。思ったより小さい亀がそこにいた。
しかし、斉明天皇の時代つまり600年代にこれが作られていたと思うと「亀は万年」を貴重な体現する貴重な亀さんであると言えよう。こんなに滑らかな石造物が残っていることに感激できるというものだ。

酒船石遺跡について調べていると面白い文献を見つけた。「酒船石が流体素子であった可能性に関する考察」というものだ。これは酒船石遺跡における石の石造物がフリップフロップ回路のような動作をする流体素子ではないかということを実験的に確かめるという内容だ。
cir.nii.ac.jpja.wikipedia.org
これの真偽はよくわからないし、フリップフロップが実現できたとして古代の人々がそれをどのように利用したかの部分がわからないとその意義も理解できないが、仮に本当だとするSF小説のような話になっていく。そんなロマンが詰まった遺跡が飛鳥にはあるのだと感じられる場所であった。

さらに北上してこんどは飛鳥寺を目指す。

飛鳥寺には飛鳥大仏と呼ばれる仏像がある。こちらの仏像は鞍作止利の作である。鞍作止利 - Wikipedia
こちらの大仏は撮影可能となっているので以下で画像を掲載させていただく。

飛鳥時代の仏像に特徴的なエキゾチックな顔立ちをしている。奈良の大仏や鎌倉の大仏とは趣が大きくことなり、仏教が伝来して間もなく、海外の宗教であると気づかされるものがそこにはある。

さらに飛鳥寺の裏手には先ほどの飛鳥板蓋宮にて暗殺された蘇我入鹿首塚がある。蘇我入鹿の首が飛んできた場所との伝説があるらしい。
蘇我入鹿首塚 | 明日香村観光ポータルサイト | 旅する明日香ネット

首塚側から飛鳥寺の方面を見た様子。

この件で私が昔から疑問に思っていたことがより深まった。それは蘇我入鹿はなぜ怨霊としての話を聞かないのか。日本人の怨霊に対する恐れ、すなわち御霊信仰は、菅原道真の例をはじめとしてよく知られたことである。無念のうちに亡くなった人物がたたりをなすということへの畏れを強くもつ日本人がなぜ、蘇我入鹿を祀っていないのかかねてより疑問だったのである。
首塚があり、入鹿の首が飛んできたというのはまさに怨念のなせる業であり、蘇我入鹿を恐れ、畏れる気持ちの表れであろう。これは平将門の伝説からもよくわかる。

そこで最近、戸谷純の鬼とはなにかを読んでいた。

この中に蘇我入鹿が怨霊となったということがあまり残されていない理由が述べられていた。
曰く一つに歴史の勝者たる中臣鎌足の子孫たる藤原不比等が編纂を命じた日本書紀にはそういった記述が削除されるだろうということ。
しかし、その中でも消し切れていない記述が存在すること。それは日本書紀巻二十六・斉明天皇元年(655年)五月の条にある龍に乗った青い油の笠を着た人物が出現したとの記録のみあるらしい。日本書紀にはこの記述のみだが、「扶桑略記」(扶桑略記 - Wikipedia)には「時人言、蘇我豊浦大臣之霊也」と書かれているらしく。蘇我入鹿が怨霊、笠で顔を隠した鬼として出現したことを表しているということだ。この記述を信じるとするならば、蘇我入鹿は怨霊として現れたことになり、その痕跡は記紀編纂の際に消しきれずに残っていたということになる。

いよいよ今回の徒歩ツアーも終わりに近づいていた。何より疲れてきたからだ。そろそろ帰ろうと思いつつさらに少し北上すると景観が石畳の綺麗な景観が見えてきた。そこの郵便局軒先には軒先に杉玉がかかっていた。

傾いた太陽に郵便局のマークと杉玉が穏やかな日暮れを演出していた。
この道は橿原神宮東口停車場飛鳥線というようだが、この道を東に向かうと飛鳥坐神社があるので、最後に参拝して帰ることにした。
ja.wikipedia.org

こちらの神社も大変歴史のある神社であるようだ。さらに性信仰が強く表れているらしい。それは境内にあるむすびの神石や陽石信仰などにも表れていた。特におんだ祭というお祭りにも色濃く表れているらしい。そこでは天狗とお多福による性にまつわる寸劇が行われるそうである。ほかにも神社にて授与される品々にも特徴があるようだ。
他にも境内には力石、男性は左手で持ち上げられれば幸せをつかめると
言われる石があり、私も挑戦させていただき、左手でつかむことができた。
さらに私が個人的に驚いたのが住所である。住所に神奈備と入っている。
神奈備 - Wikipedia
神奈備とは神の依り代だったり、神がおわす場所といった意味なのでまさに神がおわす場所に建つ神社ということになる。こうした住所や神社が残っている場所が奈良なのだと改めて感じされられた。

橿原神宮駅まで歩いて電車で帰ることにした。この日の総歩行距離はハーフマラソンを優に超えて30㎞くらい。心地よい疲れと満足感が得られた旅だった。