終わりのない日常を生きろ
オウム真理教の一連の事件があったのにに宮台真司によってかかれた本。
未だにオウム事件に関わる死刑囚の刑の執行がされて5年以上たつが、この事件はいまだに多くの人の印象に強く残っていること、また著者の宮台氏が最近いくつかの(切り付け事件と不適切行動にて)ニュースになっていることから読んでみた。
一連のオウム事件に代表される地下鉄サリン事件が起きたとき、私は小学校にあがったか上がらないか程度の年齢だった。
記憶に残っているのは、午後家に帰ってくると(学校から帰ってきた記憶があるので小学生だったのか)祖母が今のテレビを食い入るようにして見ていて、
東京で大変なことが起きたらしいということを私に教えてくれた。テレビ画面越しに多くの人が倒れこむ東京の風景がどこか現実感のない、しかしながらなにかとんでもないことが起きているのではないかと子供心に感じさせる強い説得力をもってそこにあった。
それは、当時ノストラダムスの大予言が流行っていてこの世の終末がエンタメ的にテレビでよく語られていて私の幼心にいよいよ世界が壊れ始めたのかと思わせたのかもしれない。
もちろん幼い私が、彼らの起こしたサリン事件が終末世界へのマッチポンプであったなど知る由もなかった。事件のインパクトがそれほどであったことに比べて当時のバブル後の世の中の厭世観、終末感を推して知るべしという気がする。
(昨今の日本の黄昏感よりはあの時代はまだエネルギーを感じる時代であったろう)
以上が幼少期のオウム事件に対する記憶である。その後まもなく首謀者たる麻原がつかまり、幼い私の中の記憶から抜け落ちていた事件に対して再びスポットが当たったのは高校生のとき、ゴーマニズム宣言に出会ったことがきっかけであった。
最初に読んだのはゴーマニズム宣言specialの戦争論であったと思うのだが、これから端を発してゴーマニズム宣言や新ゴーマニズム宣言と読み進めた。
確か新ゴーマニズム宣言の最初の方にオウム事件に関する部分が多く描かれていて当時のリアルタイムでの世間の反応が真新しく当時を追体験できたような記憶を覚えている。この件がオウム事件を深く知ったきっかけであったし、表題の宮台氏の終わりのない日常を生きろを知ったきっかけにもなった。
確か記憶では小林よしのり氏と宮台氏は別件では対立したが、オウム事件では意見が一致したという形で好意的に描かれていたと思う。当時はその程度にしか感じずに読み流していた。
ゴーマニズム宣言でオウムを知った後、直後に高校の夏休みの宿題で岩波ブックレットを何冊か読んでレポートを提出するという課題がでた。リストが与えられていてその中から選んで購入するという形で、確か私はリストにあったオウム裁判を読むを選んだ。(覚えていないところもあるのでほんとにこの本だったかわからない、もしかしたら破防法とオウム真理教の方だったかもしれないが、なんとなく表紙が見覚えのあるのがオウム裁判を読むであった)
この本では破防法適用があり得ないと書かれていたはずで、ゴー宣の主張と対立したことが書いてあるということをおぼろげながら記憶している。
そんなことからも多くの月日がたち蔦屋家電を歩いていたらたまたま表題の本が目に入ったので買ってみた。
というのもオウムに関しては上の経緯で、宮台真司氏に関しては友人や恋人、家族に対するコスト論を聞いて首肯するところが多かったからだ。
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ここから本題の表題の本について読んだときに残った部分。
宗教の二類型
1. 行為系宗教 幸せになりたい系
金や顔等の幸せになる手段の一つあるいは特にそれらを持っていない人の手段代替
2. 体験系宗教 ここはどこ?私は誰?系
世界の意味を取り戻させる
さらに二類型に分かれる
修養系 辛いと感じる境地があるととらえる
覚悟系 すべてのことは神などから与えられた試練であるととらえる
日本の新興宗教では行為系、体験系の二つの類型が定期等にブレンドされていると宮台は指摘する。
日本の宗教学者(少なくともオウム養護をしていた中沢新一、島田博巳)は体験系宗教を行為系よりも神志那元としてとらえて礼賛したが、宮台は電極とクスリで得られる神秘体験にそれ以上の価値はないと指摘する。
受け入れがたい”端的なもの”=前提を欠いた偶発性∍死
ニューアカデミズムが指摘した二者択一の罠
外部/内部の対立が存在するとき、それはすでに内部によって作り出されたものに過ぎないということ。
オウムを生んだ背景
絶対的な父性を持つ神が不在の日本では共同体が絶対性を、担保してきた。共同体が近代以降解体されてくると絶対的な正しさや拠り所がなくなり人々は切り離され浮遊した存在となり・・・というのは多くの人が指摘していることだが、さらに敗戦、安保闘争、連合赤軍事件以降の若者がどのような社会に立たされているかを考察した本。
連合赤軍事件事件とオウムの近さはよく指摘されたことらしいが宮台はこれは根本的に異なると指摘する。
むしろ安保や連合赤軍事件を経た後の日本を生きなければならなかった若者の一面がオウムであるという。
敗戦という社会の大きな改変があった後、連合赤軍事件と左翼革命というあらたな変革の波が訪れる50年代。
しかし連合赤軍事件の後は社会は変わらないというシラケが残され、閉塞感が生まれた。この後の世代は社会の変革を求めるのではなく個人の楽しみを追求する側面が強くなる。それと同時にバブルが訪れ、享楽的なイメージが強くなる。
それらの波にのって楽しめる人間はある意味良かったが、取り残された人々。ネクラやオタクと呼ばれた人々は疎外感を強く味わうこととなる
彼らを救済するいや彼らの求めたものとしてサブカルチャーがあり、宗教があるという。
彼らがサブカルチャーや宗教に逃げた理由が世界は変わらず、認められない動かし難い疎外された自分、それこそが終わらない日常であると言う。
そして彼らが求めたのがこの苦しい世界がある日突然変わることつまり、ハルマゲドンである。
終わらない日常どう生きるか
宮台は終わりなき日常は続くこれを受け入れて折り合いをつけて生きていくしかないと言う。
もちろんその通りだろう、思春期、青年期にはにはいろいろ迷いがあるがそれらに折り合いをつけて生きていくのが大方の日本人の姿であろう。
違和感を覚えるのは宮台が進める終わりなき日常を生きる姿である。それが彼の研究対象であったブルセラ女子高生なのである。
ブルセラ女子高生より若い年代である私から見ればやはりブルセラ女子高生も時代の病理に見えた。
それは今のパパ活も同様だし、港区女子にも言えることだ。たくましく生きていく姿には見えない。
それらは宗教にハマる若者と同様に気持ちの悪い存在に私からは見えるし、見えた。それは宮台が他にも挙げるチーマーやらゲーマー(ゲーマーなんてオタク陰キャの象徴的人種にされている)にも同様に見えるのだ。
もちろん彼が指摘するように神なき共同体の破壊された社会に絶対的な正しさは存在せず
相対的な正しさや、文脈に基づいた正しさしか定義できない。
社会変化とSFについて
個人的にこの本で面白かったのは社会の変化とSFのあり方である。
オウムに取り込まれた若者はSF好きも多かった。
SFの主題や枠組みにも科学のあり方の変遷が見えるという。
50年代SFでは科学によってもたらされる素晴らしい社会が描かれている
一方で60年代には科学が進歩しても未来は暗いという立場をとる。