恐ろしい小説だ。そう感じざるを得なかった。小説として楽しい部分が多く、ページをめくってしまうようなおもしろさが始終続くのにも関わらず、
ずっとお前の立ち位置はどこなんだとナイフを突きつけられて問われ続けているような、現代に再現した「踏み絵」のようなそんな怖さがある小説である。
- 小説を知ったきっかけ
- 人間関係の構造から正欲を読み解く
- 「正しい性欲」とはなにか。
- 明日死なないことという宗教=現代日本における正欲
- 多様性という言葉の不寛容
- 踏み絵に対してどのように振る舞えば良いか
- 語り手の登場人物
- 登場人物
- 作中にでてくるフェチ
小説を知ったきっかけ
この小説を知ったきっかけはバキ童チャンネルであった。
魚で興奮する芸人の男性というのがでてきて、トークを繰り広げる中でこの小説の話がでてきたのだ。
youtu.be
この動画の中の方は芸人という面を持っていたから、他人が笑ってくれるという形で自分の性欲を話せている。
でも、普通なら悩み人には絶対話すことはできないだろうと思う。少なくとも自分なら。
この動画を見て私が感じたのは(動画中では特に言及されておらず、自分でも自覚がないあるいは的外れなのかもわからないが、)いわゆるリョナと呼ばれる性的嗜好に近いのではないかということだ。
魚の生殺与奪の権を握っていることに興奮するところが特にそのような雰囲気を醸しているような気がした。
いずれにせよこの世の中には思いもよらない性的嗜好がある。
人間関係の構造から正欲を読み解く
本書における登場人物の関係性、与えられた役割から本書の内容を読み解いていきたいと思う。下図は本書に登場した人物の相関図である。すべての登場人物を網羅しいるわけではないことに注意されたい。
物語のキーとなる特殊な性的指向の持ち主が中央に3人書いた桐生、佐々木、諸橋である。この三人を中心に物語が進む。
この三人はその性的指向によりいわゆる普通の人間関係に疲れていたり、疎外感を感じていたりという状況におかれている。ただし、三人ともアウトサイダーであることを自覚し社会との適切な距離感を保ちながら生きにくさを感じつつも日々生活している。
最終的に彼らがとった防衛策であり、解決策が同じ指向のもの同士の連帯だった。
そのため、桐生と佐々木は偽装結婚をする。これは世間の目をごまかすカモフラージュ以上の心の安定を彼らにもたらし、互いに普通の夫婦以上の繋がりを得る。
また桐生と佐々木は諸橋のような孤独な同じ指向の人との精神的な互助のために会をつくる。諸橋もまたそこに繋がりを見出す。
つまり、この3人が正欲を持たぬ者である。
しかし、彼らがなんとか見つけ出している社会との距離感を無神経に壊そうとする人がやはり三人の周りにいる。
それが桐生にとっては西山修であり、佐々木にとっては会社の同僚である田吉や豊橋であり、諸橋にとっては神戸八重子である。
彼らは桐生たち三人にそれぞれ正しい人間のあり方、すなわち社会通念上の正しい性欲=正欲を押し付けようとする人々である。(あるいは押し付けようという意図はなくとも無意識に正しさの振りかざしている人間であり、桐生たちを苦しめる)西山、田吉、豊橋と神戸の役割、および性質は少し異なる。
西山、田吉、豊橋は旧社会的、通俗的な正しい性欲のあり方を体現した人物である。
一方で神戸は新しくアップデートされた価値観という名のより鮮烈に分断をもたらす正しい正欲をもたらす人物像である。
西山、田吉、豊橋の役割は比較的理解しやすい。旧社会的な通念にある正しい性のありようについて体現した人物たちである。すなわち、成人した男性および女性は結婚して家庭を持ち、子供をつくり育てるということをして初めて一人前の大人であり、社会で受け入れられる存在になれる、と疑いもなく信じている人々である。この風潮は徐々に日本の中で薄れつつはあるものの2024年現在未だ強く信じれていることであり(本書の表現を用いれば宗教であり)、圧力として存在している。
この3人はこの「宗教」に入信しているが、他人に入信することを強要するか、踏み絵を行うかどうかといった狂信レベルは個々に異なっており、現実社会と同様グラデーションが見られる。この中でも田吉が最も狂信レベルが高く、豊橋が最も低い。田吉は自分のもつ価値観(宗教)から逸脱した人間を認めない排他的な思考を持つ。そのため佐々木は絶えず攻撃を受けることになる。
一方で狂信レベルの低い豊橋は佐々木にダメージを与えないかと言うと決してそんなことはなく、むしろ社会人としてできた人間である豊橋と自分を比較することが佐々木にとって最も自分の異常性を強調することになるのである。
西山の狂信レベルは前に述べた二人の中間であり、彼は物語上別の大きな役割を担っている。彼にレッテルを貼ればいわゆるマイルドヤンキーであり、地元の友人たちとの関わりこそが彼を彼たらしめているのである。
自分の特殊性を自覚する桐生にとっては西山との関係のような学校という特殊な社会における人間関係は最も遠いところにおきたい存在である。にも関わらず、西山は自分の無邪気な「宗教」観に沿って桐生を同窓会に引き摺り込むのである。
そして西山に与えられた大きな役割、それは死ぬことである。自ら主導した同窓会の計画中に川で溺れ事故死する。これこそが物語中のキーになっている。
この物語をつらぬく「宗教」(あるい佐々木は哲学とも)、無意識のうちに共有されている価値観は「明日死なないこと」である。世の中すべての事象は価値観はこれに従っているということが物語冒頭から強調されている。そして桐生、佐々木、諸橋といった人々は、その無意識に共有されている価値観にまさに疎外されて苦しんでいるのだ。
「明日死なないこと」(あるいは「明日死にたくない」)という宗教に入信者である西山が酔っ払って川で事故死する。この事実は「宗教」を同じくする(本書の意味では個人間で全く同じ「宗教」というのは本来存在しないので、近しい価値観を共有する)人々、つまり西山が企画を進めていた、穂波辰郎と桂真央の結婚式とそれに伴う同窓会の桐生と佐々木の除く全ての参加者から悼まれたのである。
物語の解釈から考えると以上のように考えられるが、作者である朝井リョウの立場から考えると非常に面白い。正欲をもたぬものとしての桐生、佐々木、諸橋と正欲をもつもの西山、田吉、豊橋の対立は単純な構造である。
そこで物語の進行上、正欲を持つ者から死ぬものを作らねばならなかった、なぜなら正欲をもつものにとっての教義は死なないことだからである。教義を破るものを作り出すことで教義を持たぬものつまり桐生や佐々木の価値観を炙り出そうと試みたからである。
しかもこの死は真の意味で悲劇的であってはならない。つまり若くして本人の責めに帰することなく死の病に取り憑かれて死ぬのではない。客観的に見ればひたすらに愚かしい死でなければならないのだ。(ここでいう客観的とは西山と関係がなく、遠くからこの事象と眺められる者あるいは西山と同じ「宗教」に入っていない佐々木や桐生の視点をさす)
こうして酔っ払って川に飛び込んで溺れて死ぬという死に方が生まれたのだろうし、こういった行動をとる人間としてマイルドヤンキーとしての西山像が形作られているのだろうと思うと非常に面白い。
さて、正欲をもつものとして神戸八重子の立場は大きく異なる。というのは神戸八重子は旧来の正欲という概念をつきくずして、新たな社会通念上のただしい性のあり方=新たな正欲という概念を生み出し、布教する人間だからである。この新たな正欲、すなわち、ダイバーシティを本書の呼称に従えば新たな「宗教」と位置付けることが可能である。
神戸八重子はこの新しい「宗教」をもとに旧来の正欲の外側にいた(と彼女が考える)諸橋大也を新たな正欲の世界に向かい入れようとする。
しかし、ダイバーシティやLGBTQAといった類型、分類的な手法を根本に持つものは、どうしてもその枠、分類から外れたもの、漏れたものを生み出してしまう。そのため、新たな「宗教」からも異端の烙印をおされるであろう諸橋は強い拒否反応を示す。
旧来の「宗教」によって異端という烙印を押された人々が存在する。そして新たな「宗教」の到来によってこれまで異端とされていた人が正しい性欲をもっていると認定された一方で新たな「宗教」からも漏れてしまった人々つまり異端される人々が存在するということ。この点が朝井リョウが表現したかったことではないかと思うのだ。
では次で正しい性欲=正欲とはなにかについて考えてみたいと思う。
「正しい性欲」とはなにか。
本書のタイトルである「正欲」とはすなわち「正しい性欲」のことを指している。ここではこの「正欲」とはなんなのか考えてみる。
三大欲求としての性欲
人間の欲求を分類すると生理的欲求(生理的欲求 - Wikipedia)と呼ばれる人間の生命維持に関わる根源的な欲求に行きつく。この中で有名なのがいわゆる三大欲求であり、食欲・睡眠欲・性欲である(何を三大にするのかは諸説あるようであるし、三大として三つ選び出す行為がいかにも日本人らしい行動なのでおそらくこれは日本だけで通じる概念ではなかろうか)。
いずれにせよ性欲とは生理的欲求、すなわち人間の生命維持にかかわる欲求の一つということになる。
しかし、性欲には厄介な側面がある。それは性欲は満たされなくても、それどころか存在しなくても、その個体の生命維持には影響がないということである。
性欲は個体の生命維持ではなく種の生命維持、つまり種の存続に関わるからだ。(種とまで風呂敷を広げなくても複数の人間から構成されるコミュニティの存続と言ってもいい)
つまり、性欲が種あるいはコミュニティの存続のために満たされなくてもその責任はコミュニティの構成員の数で割った分くらいしか個人は負わないはずである。
しかし、やはりここでも厄介な事実に行き着く。それは、人間は自分の子孫、個人としての種の存続に対して欲求を覚えるからである。つまり、性欲を満たすことによって自分のコピーとしての子供を作ることで個の生命維持を図っていることになる。
ここまで考えると性欲が人間の生命維持に関わる欲求だと納得することができる。
ここまでの考察で一度、正欲について結論をだしてみよう。正欲とは子孫を作るための性行為に対する欲求ということになる。
社会によって規定される正欲
上で定義した正欲はある一面では正しいかもしれないが、多分に間違いが含まれている。というのは人間は社会的な生き物であり、その社会における正しさというものが存在するからである。
性欲に関してもその社会において正しさが決められるものであり、正欲とは社会と切り離すことが不可能なものである。
例えば、ある社会、コミュニティでは男女一対の夫婦を形成して子孫を残すことを是として、一夫多妻や一妻多夫は法的に許さない。しかし、一方で一夫多妻が許され、子供を残すことを許容する社会も存在する。
これは地域的に変動するだけでなく時代によっても変化する。例えば、日本でも長男だけが、子供を残して長男以外は子供を作ることを許さない社会が存在したし、さらに遡れば日本でも一夫多妻が許された時代も存在する。
ここで気をつけなければならないのは法律における婚姻制度はすなわち子供をなすこと、つまり上で定義した正欲と一対一対応するものではないことである。
それは、日本における重婚罪が婚姻を複数の人と結ぶことを禁止しているのみで、複数の人と子をなしたり、生活したりすることは禁止していないことからもわかる。
私は法律における婚姻制度やあるいは歴史、地域的な婚姻制度の意義に関して知識がないのでこれ以上述べることはやめておく。ここで大事なのはこのあと述べたい現代日本における正欲がどのようなものかを考えるための準備となる正欲とは社会に依存するという事実および婚姻制度も正欲を規定する一翼を担っているという事実である。
社会における正欲のつかみどころのなさ
正欲は社会によって規定されるということを上で述べたが、社会という表現がとらえようのないほど複雑怪奇なのであるからだ。少なくとも社会というものは複数のコミュニティから形成されているとみなすことができる(私はこのあたりに詳しくない、かなり間違ったことをいっているのかもしれない)。個々のコミュニティによって正欲というのは少しずつ変化する。コミュニティというのは暮らす地域や年代、おかれた立場、仕事・会社、学校、年収等によって変わるのでこれといった正欲を現代日本社会という枠組みの中ですら明確に定義できない。
これが正欲のとらえどころのなさをより強めている。
本書でもこのつかみどころのなさは巧妙に表現されている。それは「明日死なないこと」というように作中で呼ばれている。暗黙のルールとも大きなゴールともいわれている。
ここで簡単に注意しておくが、暗黙のルール、明日死なないことが包含する範囲は性欲、つまり正欲だけではない。もっと大きな概念である。
このルールを作中で明確に意識しているのはルールの外側にいる佐々木や桐生、諸橋たちであり、彼らはルールの外側にいるからこそ、このルールの作り出す境界線を見つめ続けている。
そして、ルールの内側にいながら、このルールを意識しているのは寺井啓樹である。それは、寺井が検察官としてルールを超えるもの(ただし、法が定める境界なので明確に暗黙のルールとそれは合致しているわけではない)と対峙し続けてきたからだろう。法と暗黙のルールの関係は後述する。
また、この暗黙のルールは世代間や所属するコミュニティ、時代によって変化する。
それを体現したキャラクターが神戸八重子(とその周辺の人物)と寺井泰希である。
寺井泰希は不登校である自分の立場から(厳しい言い方をすると自己の正当化のため)ユーチューバーに影響されて学校に行くのは古い考え方だと主張する。(このユーチューバーの元ネタは明らかにゆたぼんだろう)
ルールの管理者である父親の寺井啓樹はこれをよしとせず、息子を学校に行かせようとする。
ここに異なる価値観の衝突が起きており、互いの苦悩が描かれている。
一方の神戸八重子は比較的新しい価値観であるダイバーシティを大学祭の中で推進する。作中の中ではあまり語られないが、ダイバーシティは性的マイノリティへの差別偏見をなくそうという動きだけではなく、性別、国籍、人種に関する多様性に関する概念を含む。しかし本書におけるダイバーシティの価値観の中には主にLGBTQAといった性的指向への性的マイノリティへの偏見、差別をなくそうというというところが大きい。
この概念は現代日本社会に浸透しつつあるが、ユーチューバーに対する寺井啓樹の反応のように拒絶反応を示す人も本書に登場する。
それは桐生夏月の両親である。彼らは強い拒絶反応ではなく、こうした考えがでるのも時代の流れとして半ば諦観として受け入れている様子である。
年老いたものには新しい考え方をすぐに受け入れることは難しいのは当然であり、世代間の正欲への認識の違いが生じるシチュエーションを見事表現しているといえよう。
中世キリスト教社会における正欲
もう少し社会によって規定される正欲について考察してみたい。中世ヨーロッパ、キリスト教社会における正欲について考えてみよう。
(この社会に関する知識も深くないのだが)中世キリスト教社会においては子供をつくるためのセックスのみが許されて快楽を求めることは禁止された。
そのため教会が定めた正常位のみが正しい体位とされて他は禁止されたり、オナニーが禁止(オナン - Wikipedia)されたりといったことがおきたわけである。
このように宗教によって正欲が規定されることは簡単に歴史が示している。
1984年における正欲
最近読んだSF小説1984年にも正欲がでてきたのでせっかくのなので考察しておこう。
1984年においてセックスは夫婦間で子供を、すなわち新たな兵士を作ることのみに奨励されており、快楽を得るために性行為を行うことは禁止されている。加えて党(この世界では一党独裁体制がしかれている)は将来的には神経を制御することで快楽を奪い、性行為を純粋に子孫を残すための行為にしようと研究を行っている。
calciummm.hatenablog.com
正欲と快楽
ここまでは子供をなすことが正欲とされる面を強調してきており、性において快楽を求めることが正しくない社会ばかりであった。快楽を求めることが正しいとされなかった社会や時代が多かったことは間違いない。しかし性欲は快楽と切っても切れない関係である。
現代の日本あるいは多くの欧米社会などでは性欲において快楽を追求することは(程度問題ではあるにせよ)問題ないことになっている。つまり正欲となる。日本では恋愛教とも呼べる恋愛至上主義が長いこと若者たちの支持をうけていて、避妊してのセックスは当然のように受け入れられている。
程度問題であるというのは例えば、日本ではいわゆる乱交行為は公然わいせつ罪として取り締まられる可能性がある。つまり、快楽を追求するのは時と場合によっては正欲とはならないことを示している。
他にも、同意を得ずに性行為に及んだら不同意性交等罪(不同意性交等罪 - Wikipedia)になったり。強制わいせつ罪になったりするだろう。
ここに正欲を規定する一因が顔をだす。すなわち法である。
法が正欲の範囲を規定する一因となっていることを本書では検察官、寺井啓樹として役割を与えている。
法が規定する正欲の範囲は、上で述べた暗黙のルール、明日死なないこととは完全には一致しない。しかし、ある程度お互いに影響し合って境界線が一致するところも存在するところに注意すべきだろう。
明日死なないことという宗教=現代日本における正欲
前節では、正欲あるいは、正欲を含む暗黙のルールすなわち明日死なないことという宗教がどのように形成されうるかという部分について考えてみた。ここでは本書の中で明日死なないことという宗教がどのように描かれているか。そしてその枠外にいる桐生、佐々木、諸橋がどのように捉えているかについて記述する。
物語冒頭にある記述
文中では世界には暗黙のルールと大きなゴールがある、その大きなゴールに自然とほとんどの人が向かっている、その大きなゴールを端的に表すと明日死なないこととして書かれる。つまり、人間活動の全てが明日死なないことに収斂するというような表現である。ただ文中でことわっているとおりこれは哲学的問ではなくて無意識的、無自覚的にに誰もが暗黙のうちに認めているものであるとしている。ここまでは小説の最初の方に書かれている。
最初このあたりを読んでもかなりあいまいでぼんやりしているため何をいっているかわかりにくい。
この暗黙のゴールは一緒に生きる相手を見つけた人間だけのものだという。つまり、人間にとって重要な価値観を共有する人間のもつゴールであることが示唆されている。
そして、この物語はその暗黙のルールから外れている者の物語であることが示唆される。
佐々木の哲学
物語の後半で佐々木によってこの明日死なないことを含む人々が持つ考え(哲学と彼は呼んでいる)に関する説明がある。
世の中の人々はすべて異なる哲学を考えを持つと佐々木は考えていて、それは哲学と言ってもいいし、宗教、思想のような物といってもいい。
宗教と言ってもそれはすでに名前がついて体系化されているようなキリスト教、仏教みたいなものだけでなく人々が個別に宗教を持っていると佐々木は考えている。
佐々木が明日死なないことというゴールを宗教と呼称するのはそれを根拠なしに信じていることがその所以だろうと思われる。
宗教や哲学と大上段から言わなくても、なにを快としてなにも不快とするかというパーソナリティといってもいい。
この哲学、宗教はその人のバックグラウンドで個別に形成されるものなので基本的に完全に合致することはない。
しかし、ある程度重なる人はそれはいわば価値観を共有する仲間、友人、あるいは配偶者、家族となりうる。そして仲間となった人に生きていて欲しいと思うようになる明日死なないでほしいという範囲が自分の枠を超えて広がると言っても良い。つまり宗教が同じ人の死は当人のみの死ではない。志を同じくする信者の死なのである。
だからこそ、この宗教を明日死なないゴールと呼んでいるのだろう。
佐々木や桐生はこの明日死なないゴールを共有していなかったといえる。それは前述の理由で正欲を持っていなかったからである。しかし、佐々木と桐生は同じ価値観、二人の中でのみ共通する正欲をもっていたからこそ二人は支え合うことができて仮面夫婦としての形式をとることができたのだ。
しかし、何もをって夫婦とするかという定義で考えてると彼らは立派な夫婦ではないだろうか。彼らの夫婦生活から欠如しているのはお互いを対象とする性生活である。これを致命的とするかどうかはその人の正欲の範囲に依拠するだろう。
いずれにせよ、佐々木は桐生とあうことで宗教をおなじにする人に会えた、だからこそ二人は自殺禁止のルール(ルールと明文化したのはお互いが必要だという意味での愛を確かめるための行為であった言えよう)の設けて、お互いに明日死なないことをゴールにすることができたのだ。
マイノリティの理論武装
この小説を読んでいて、キャラクターづけが上手いなぁと思わずにいられないところが、この小説の中の特殊な性欲をもつ三人、桐生、佐々木、諸橋が徹底的に理論武装していることだ。昨日今日この問題に向き合ったのではないことを如実に表現している。
マジョリティたる明日死なないこと教の人は自分がその宗教に入っていることに無自覚である。それは明日死なないという宗教に入っていて傷つくことがないからだと言える。
境界線にいるものあるいは枠外にいるものは常にマジョリティからの攻撃に晒されているもしくは晒される危険があるためにこの枠組みを意識せざるを得ない。そのために常に明日死なないことという宗教のありようについて常に考えているのだ。
また、彼らは欲求に対しても常日頃から考察しているのであろう。
というのは桐生は睡眠欲は私を裏切らないからという理由で寝具店に就職する。
佐々木は食欲は自分を裏切らないからという理由で食品会社に就職する。
そして諸橋は購買意欲、物欲は裏切らないからという理由で消費行動ゼミに所属する。
性欲に裏切られてきた彼らは別の欲求に対する強い信頼感があることがわかる。つまり正睡眠欲、正食欲、正物欲を彼らは有しているのだ。つまり世の中の多くの人と同じように眠り、食べ、購入する人間であることが表現されている。
桐生のセリフに以下がある。
自覚しているもんね。
自分たちが正しい生き物じゃないって
地球に留学しているみたいな感覚なんだよね
正欲からはずれてしまった人の心情が表現されている。
多様性という言葉の不寛容
本書における大きなテーマが多様性という新しい枠組みが生み出す枠から外れてしまうものへの。つまり、より多くの人が差別や偏見にさらされることなく活きられる世の中を作ろうという一見素晴らしい価値観に基づいた試み(この価値観が素晴らしいと思うかどうかもある種のイデオロギーにのっとってらない限り判断不可能であると思える)が生み出す危険性について問うた小説ともいえる。
それを一言で表現したのが
多様性にはおめでたさがある
という一文だろう。
多様性はマイノリティやマジョリティといった議論はその構造上新たなマイノリティを作り出す。全てを包括できるような枠組みを作ることができない(難しい)ことを示している。それなのに多様性という言葉で全てを囲い込んでいるような表面的な表現であると指を刺し糾弾する言葉である。
この小説はこうした自分と異なるコミュニティに属した人間にたいしてどのように接するかどのように相対すのかを問うたものであると私は感じた。
この小説の後半では常にこれについて問い詰められているような、踏み絵のような感覚を覚えた。
踏み絵に対してどのように振る舞えば良いか
この間友人から感覚遮断落とし穴が好きだと話を聞いた。
感覚遮断落とし穴自体初めて聞く性的嗜好だった。
世の中には知らないこと、思いもよらないことに溢れていると思わざるを得ない。
dic.pixiv.net
こうした人のありようを感じると私はただひたすら謙虚に生きなければならないと感じる。
自分の知っている世界、見ている世界だけが世界じゃあないということだ。
驚くべき感性や視点で世の中を見ている人もいる、そういった視点に自ずと気づくのは不可能と言っていい。自ずと気づけるというのは傲慢である。知った後に理解することができるというのも傲慢である。
ただ、自分の思いもよらない世界があることを前提に生きることがこの小説という踏み絵に対する私の対応である。
語り手の登場人物
様々な人の視点で物語がすすむ。以下では本文の中で語り手となる登場人物について簡単に記す。
寺井啓樹
一児の父の検察官。妻の由美と子供の泰希がいる。泰希は不登校でユーチューバーをはじめる。子供との距離感に問題があると感じている。
検索という職業柄、犯罪者はレールをはずれて人間に多く、不登校の息子はそのリスクを高めていると懸念する。子供のために地方への転勤を断った過去があるため、子供の不登校は自分の今後にも影響すると感じている。法の限界をぼんやりと意識するが、法が決めたラインを超えたら罰するべきだという厳格さも併せ持つ。
いわゆる正常な人間、真人間である、そしてあろうとする性質が強いが、事件、子供、妻とのやり取りでその意識が揺らぐ。変態性へ社会正義から否定する方向があるが、妻とのセックスで徐々に自分にも変態性を、もっていることを自覚する。
逮捕された佐々木佳道、諸橋大也の取り調べを行う。
桐生夏月
ショッピングモールの寝具販売員として働く。本書に登場するいわゆる特殊な性的指向の持ち主の一人であり、「水が噴出する様子や水が強制的に形が変えられている様子」に興奮する。睡眠欲は私を裏切らないからという理由で寝具店に就職する。
職場等で他者になるべく関わらないようにしている。そのため学生時の同級生に会わないように地元から少し離れた場所で働いている。両親と暮らしている、両親は夏月の結婚をあきらめかけている。両親と会話は成立しているが対話は成立していないと感じている。
モールで同級生である西山修、広田亜衣子夫妻に会ってしまい、同級生である穂波辰郎と桂真央の結婚式行くことになってしまうが、そこで性的指向を同じくする佐々木佳道に再会する。佐々木佳道と偽装結婚をすることで心の繋がりを得て安定する。逮捕された佐々木佳道のことをずっと待つことを決意する。
佐々木佳道
桐生夏月の同級生で同じ性的指向を持つ。高校生のときに同じ性的指向であることを共有するが、その後すぐ転校する。
現在は食欲は人間を裏切らないからと食品会社に就職する。理解されない性的指向によち幸福よりも不幸の方が居心地が良くなる。
結婚していないことなどを理由に同僚の田吉から目の敵にされる。
結婚式で再会したことをきっかけに桐生夏月と偽装結婚する。同じ性的指向をもった人との繋がりを得ることができる会、精神的な互助会を作る。
互助会での活動がきっかけで逮捕される。検察に動機を聞かれるが、理解されることはあきらめ、口を閉ざす。
神戸八重子
金沢八景大学に通う大学生。文化祭の実行委員。久留米よし香は友人で同じく実行委員。自身の太った容姿にコンプレックスがある。ミスコンを廃止してダイバーシティフェスを企画。好評を得るが一方でミスコンをつぶしたと非難も受ける。ダイバーシティフェスのテーマ繋がりを提案する。ダイバーシティフェスにおじ恋というおじさんの恋をテーマにしたドラマ(おっさんずらぶが元ネタかおっさんずラブ - Wikipedia)のプロデューサー平野を講演依頼する
兄が引きこもり。兄が妹もののAvを見ていたことから男性を受け入れられなくなり男性恐怖症になり、異性が怖い。
諸橋大也にはなぜか拒否感がおこらず、恋心を抱く。そのためネットストーカー的な行動をしてしまい、大也が所属するダンスサークル、スペードに写真のリクエストをする。
兄への恐怖心から家族との繋がり、特に気軽に悩みを打ち明けられる相手に飢えている。
諸橋大也に自分を受け入れて悩みを話して繋がってほしいと懇願する。
諸橋大也
金沢八景大学に通う大学生。ダンスサークル、スペードに所属する。見た目が良い。
水にまつわる映像で興奮する性的指向の持ち主。水が沸騰、固体から液体へ状態変化する、勢いよく噴射などに興奮。
AVによくでる例のプールを知らないなどの性知識に乏しいことから周りからゲイ疑惑をかけられる。高見優芽や神戸八重子のような無頓着な理解を示す人に激しい嫌悪感を抱く。
物欲には裏切られないからという理由で消費行動ゼミに入る。
インターネットで多様な性的嗜好を知ることで自分が想像し得なかった世界を否定せず、干渉せず、隣同士、ただあることを知る。
寺井泰輝のユーチューブアカウントに自分の性的欲求をみたすためのリクエストをSatoru Fujiwaraのハンドルネームで書き込む。
互助会 同じ状況の人と繋がることとする
田吉幸嗣
佐々木の同僚
佐々木を目の敵にする
結婚指輪がなちと、うちでは一人前だと認められないから
まともじゃない人にいてもらってもね、こまっちゃうからあ。わかるでしょ
といった発言を佐々木にする
二時の父
登場人物
語り手にならないその他の登場について。
西山修
桐生夏月の同級生。 広田亜衣子の夫。一児の父。クラスのまとめ役のような存在で、同窓会などを企画する。
久しぶりにあった同級生にも名乗らずとも自分がわかるだろうという無邪気な尊大さを持つ。
穂波辰郎と桂真央の結婚式に伴う同窓会を企画するも、川遊び中に溺死する。酒に酔った状態で川に飛び込むような思慮が浅いところがある。
一方で桐生夏月と佐々木佳道の関係性に感づくなど鋭いところも持ち合わせる。
水を出しっぱなしにするのがうれしかったという理由で水道を盗んだ藤田悟の記事を高校のとき授業中に紹介した。
広田亜衣子
旧姓広田、現在は西山。桐生夏月の同級生。西山修の妻。一児の母。西山修が死んだために子供とともに残される。
穂波辰郎
桐生夏月の同級生。桂真央と結婚する。
桂真央
桐生夏月の同級生。穂波辰郎と結婚する。
越川
寺井啓樹の部下。
寺井由美
寺井啓樹の妻
寺井泰希
寺井啓樹の息子。不登校。NPOで出会った富吉彰良とともにユーチューブチャンネルをはじめる。
父親は自分を理解してくれないという思いを抱える。
ユーチューブのコメント欄には様々な性的指向を持った人々からの欲望を満たすためのリクエストが届くか、無邪気にリクエストをこなす。
富吉奈々江
アキラの母。夫は歯科医。
よし香
実行委員の一人。八重子の同級生で友人。
桑原紗矢
よしか八重子の先輩。実行委員の代表。
桑原真輝
紗矢の姉。29歳。
平野千愛
おじ恋のプロデューサー。ダイバーシティフェスでの講演を依頼される。
沙保里
夏月の職場の同僚。妊活について一方的に話してくる。
豊橋
佐々木の同僚。社会人として理想的な人物で無邪気で人懐こさがありつつも変なプライドのない良い人。既婚、子供がいる。
心を開いて自分を受け入れてくれる人物だが、佐々木はこういう人物が怖い。佐々木にはとっては田吉の方がましとまで感じられる。
藤原悟
水を出しっぱなしにするのがうれしかったというのが動機で公園や公民館の蛇口を盗んだために逮捕される。
桐生夏月、佐々木佳道、諸橋大也の三人が知り合うきっかけとなる。
作中にでてくるフェチ
例としてでてくるフェチたちような聞いたことあるフェチではあるが、インターネットがなければ絶対に知り得なかったようなフェチも多いように感じる。
嘔吐フェチ
丸呑みフェチ
状態異常/形状変化フェチ
風船フェチ
マミフィケージションフェチ
窒息フェチ
腹部殴打フェチ
流血フェチ
真空パックフェチ