があらんどう

伽藍洞です。

鬼とはどういう存在か~鬼とはなにかを読む~

鬼とはなにか まつろわぬ民か縄文神か 戸谷学著を読んでみた。

鬼というテーマも惹かれるものがあるのだが、縄文神や忘れられてしまったあるいは乗っ取られてしまった神々という存在が私にとって非常に惹かれるテーマの一つだからだ。
というのは私の故郷の神社の神も後から来た神によって乗っ取られた神なのではないかと感じているからだ。
明確な証拠や論拠があるわけではないのだが、ここ2~3年そんな妄想めいた思案をしている。本格的な研究をしているわけでもできるわけでもないのでなかなか思考が深くならないのだが、なにかヒントが得られるかもしれないと手に取った本である。
以下は自分が気になった点や感想のまとめである。

まずは全体を通してのレビュー。
もともと独立して書かれていた文章を鬼をテーマに抜き出して章ごとにまとめて1冊の本にしていると言う形式のため、各章での結論が一つの大きな結論に向かうわけではない。章ごとの役割が不明瞭なところがあり、結論が微妙に整合しない点や理路整然とした論理展開が行われていないところがある。結論が不明瞭な部分が存在するため、知識をつける意味では非常に面白い本ではあるが、統一的な見解を得ることができないと言うのが難点だと感じた。
最終章でも結論というのは存在していて一応全体を概観してくれてはいるのだがそれも少しわかりにくいところがある。

また、文中には筆者の主張ではなく、別の人の説が述べられている。その説と自分の説がどういう関係にあるのか、筆者自身はその説にたいしてどのように考えているのか書かれていないところがあり、非常にわかりにくいと感じる点が見受けられた。

本のタイトルでもある「鬼とはなにか」という問いに対して筆者の最終的な結論は「鬼とは縄文人である」ということのようだ。
弥生(大和朝廷)vs 縄文という形で敗者となり、まつろわぬ民であった縄文人(宗教的権威、祭祀)あるいは縄文神が鬼に零落したとのことだ。もともとの鬼は福をもたらすかみであったが、大和朝廷にまつろわぬ存在としておとしめられた結果が今の姿であるということだ。東北や九州に鬼祭の多いのは中央から遠く、縄文が色濃く残っているからだと説明している。

日本語における「おに」

「おに」という言葉は元々日本語(大和言葉)として存在しており、それに漢字である「鬼」という字を当てはめた。このことが、「おに」という言葉の持つ意味を変化させてしまったという側面があり、変化の後に長い年月が経っている我々では漢字の影響によって歪む前の「おに」という言葉が持っていたニュアンスを測りかねる。時とともに鬼という言葉が持つ意味は変遷していったという話。

漢字における鬼という字は毛髪がわずかに残った白骨の象形文字として成立している。
死して神(魂)と鬼(肉体)で鬼神であると礼記にある。これが中国語にあった鬼という漢字の持つ意味である。つまり中国では死者の霊をさす。

一方で日本での「おに」にはどういう意味があったのか。「おに」に鬼という漢字を当てはめたことによって、その文字の意味が引っ張られてしまったと言うことである。
折口信夫によれば「おに」には本来「隠(おぬ)」という字を当てるべきであるとのことだ。隠れている見えない存在であると言う意味である。「おに」には、「もの」とも「かみ」と呼ばれているものだったが、漢字に鬼をあてられたことによって、意味が分化してしまったと言うのは、著者の主張である。

まとめてみると「おに」と「かみ」はほとんど同義であった。人間にははかりかねる、自然や物事の働き、特に隠れて見えない存在を指していた。しかし、「鬼」という字をあてられたために、いわば零落して凶事を示す存在、妖怪のような存在になったのではないかとう話である。

御霊信仰

日本における強い信仰として御霊信仰というものがある。
御霊信仰とは怨霊となって疫病や天災を起こし、畏れられる人を鎮めて御霊として祀り鎮護の神とする。御霊信仰には災いを多くもたらす強い怨霊こそ、御霊になると非常に強力な鎮護の神となるという思想が存在するようだ。
ja.wikipedia.org

祇園祭の原型

祇園祭祇園御霊会と言い、怨霊の慰霊祭にあたる。もともとは神泉苑にておこなわれていた。神泉苑はもともと今よりはるかに広大だったが、現在は元の大きさの6%しかない。
この縮小の原因の発端は二条城の築城にあり、家康の意図による風水断ちであるとされる。その後、京都の人々家の侵食により現在のサイズになっている。

神泉苑にて863年の祇園御霊会が行われた。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/863
京都にて疫病、咳病がが大流行して、怨霊の祟りとされた。
怨霊会は藤原氏主導で六人の怨霊をしずめるためにおこなわれた。
六所御霊とよんで畏れた、人物である。
崇道天皇早良親王 - Wikipedia
伊予親王(伊予親王 - Wikipedia)
藤原夫人 吉子(藤原吉子 - Wikipedia)
橘逸勢(橘逸勢 - Wikipedia)
文室宮田麻呂(文室宮田麻呂 - Wikipedia)
藤原広嗣(藤原広嗣 - Wikipedia)

ここからは個人的な考察
京の人間が関東、東北の人間を恐れていたがわかる。そして東北には、現在ではアイヌと呼ばれる人たちに近い縄文人が数多く暮らしていたはずだ。そういった人々はいわゆるまつろわぬ民としての性格が強かった。
しかも縄文人は劣っていたわけではない、阿弖流為の反乱の後、東北地方の鍛冶が各地に移住させれてので彼らの作っていた蕨手刀が日本刀に進化したといわれている。また、古代や古墳時代奈良時代などは大陸とのつながりや日本海での海運をもつことが重要であった。縄文人のなかには海人族のような人々もいて大陸にいったり、各地の海人族との交流を持ち大きな力を持っていたはずである。こうした力をもつ人々への京の人々の恐れが鬼という形に現れているように感じる。
後に武家の棟梁となった源頼朝が鎌倉、つまり東国に幕府をひらいたのも源氏の地盤があった、京都からある程度遠いところを選んだという面も強いだろうが、京都への反発心のようなまちろわぬ民の息吹を感じるような気がする。
関連していえば源義経が頼った奥州藤原氏も同様にまつろわぬ民の風を感じる。奥州藤原氏(奥州藤原氏 - Wikipedia)はもともと藤原氏の一族ではあるが、いわゆる没落貴族だろう。こうした勢力も元々は中央の人間だろうが、地元の人々と結びつき、地方化つまり、まつろわぬ民化したのではないかと感じる。
修験道修験道 - Wikipedia)などもこうしたネットワークに関わっていそうだと感じる。義経たちが逃げた時の格好は修験者であったし、山を中心に活動する。天狗も修験者の格好をしている。金売りの吉次(金売吉次 - Wikipedia)などもなにやらつながりそうな不思議な人物だと感じる。
義経の物語は頼朝という兄との対立でありながら、まつろわぬ民としてなくなった縄文人への哀歌みたいなものを感じる。

怨霊信仰と鬼

怨霊という存在はもともと鬼とは別の存在であったが、後に同一視がされるようになったということらしい。
重なる部分はるような気がするが、怨霊と聞くイメージと鬼と聞くイメージが大きく異なる部分も多い気がする。
能楽の発展において、どうやら怨霊とくに女の怨念が般若などの角を持った女で表現される。鬼のイメージと重ねられたという形のようだ。

鬼を祀る神社

  • 天照御祖神社(通称常龍山)

征夷大将軍坂上田村磨が総師タモノ王を滅ぼし、その残党である常龍山鬼(鬼とは大和軍が敵対する強い大将につけた。)討った。
しかし怨霊となったため、十一面観世音像を安置した小さな堂を建立したという縁起をもつらしい。
前述のまつろわぬ民=鬼にあてはまる神である。

祭神は酒吞童子酒呑童子は鬼として有名だが、本来はどういった存在だったのか。山で暮らしていた山賊だったのか。そうすると鬼=犯罪者の類型に当てはまる。
ja.wikipedia.org

祭神は大江山の鬼の首。酒春童子首塚
鬼退治伝説の舞台の大江山は丹後と丹波の二説ある。首塚も二つ。
大江山の鬼退治伝説には酒呑童子以外に他に二つ。
日子坐王(崇神天皇の弟)が土蜘蛛、玖賀耳之御笠という鬼を退治したという伝承(『古事記」)。
麻呂子親王当麻皇子聖徳太子の弟)が英胡、軽足、土熊という三鬼を退治したという伝承(「清園寺古縁起」)
筆者はこの鬼の正体は、酒呑童子と同様に、強盗強奪などをする賊徒と予想している。
しかしながら土蜘蛛などの表記を考えると、こちらもまつろわぬ民ではないのだろうか。

祭神は温羅和魂。
「温羅」(うら、おんら)は鬼の名前という言いつたえ。渡来の名前ではないかと思われる。。
伝承によると温羅は、吉備国の外から飛来して、製鉄技術をもたらした。
鳴釜神事で有名。
吉備は刀剣などの名産地になる。備前長船などが有名。(備前長船兼光 - Wikipedia

卑弥呼と鬼神道

神道

卑弥呼は鬼神道に仕えたとある。
この鬼神道とはなんだろうか。この鬼神道とは従来シャマニズム、神がかりと考えられてきた。
しかしこれは魏志倭人伝およびそれを参照した後漢書の表記によりイメージの違いの可能性もあると筆者は主張する。
すなわち卑弥呼倭国を貶めると言う意図があったため、鬼神道と言う表現を使った。しかしそれが本来行っていたことを曇らせた可能性があると言うことである。
卑弥呼が行っていたことが、いわゆる古い形態の神道であった可能性があり、さらに道教が加わっていたのではないかと筆者は主張する。
それは天円地方という道教の考え方である。
ja.m.wikipedia.org
これは天は丸く、地は四角いという道教の世界観であり、これを模したのが前方後円墳であるというのだ。
天つ日嗣(皇位継承)は前方後円墳の上で行われ、これが大嘗祭にら相当するのではないかと主張する。
kotobank.jp
天から地への天降りの儀式でもある。アマテラスの系統の霊をうけつぐ
日嗣とは霊嗣であり、先祖の力、神の力を継承する儀式ということである。

すなわち、筆者は卑弥呼は大和政権に連なる存在だと主張しているようである。
天皇は宗教的な権威であり、その宗教的権威は先祖から受け継ぐことで備わっているという性格のものである。その受け継ぎを行う装置が前方後円墳だという説明のようである。
卑弥呼=天照だとは特に言っていないと思う。
だとすると卑弥呼と天照はどういう関係なのであろうか。

卑弥呼は怨霊か

以下に書かれていたのは筆者の主張ではなく別の人の説が書かれていた箇所をまとめた。
卑弥呼からアマテラスへの神あがり説というのが存在する。つまり卑弥呼=アマテラスということだろう。
また、卑弥呼殺害説というのも存在している。これは皆既日食=天岩戸によって人民の信頼を失ったために殺されたということだ。
松本清張梅原猛 樋口清之ら主張。
そして卑弥呼は怨霊神になったという。

天の岩戸神話が日食の話であると言う主張は江戸時代に荻生徂徠らが主張。
卑弥呼の時代に皆既日食があった事は、斉藤国春古天文学の道などで検証。

岩戸開きの祭はアマテラスの鎮魂、祟り鎮めである。

梅原猛の隠された十字架以来、音量とされていなかったものを怨霊とする試みがされた。
聖徳太子法隆寺
大国主出雲大社
大物主が大神神社

鬼門信仰

現代にまで深く入り込んでいる信仰に鬼門信仰がある。鬼門信仰は源流をたどると風水に最終的には道教にたどりつく。
中国の風水では、西北、戌亥の方向を天門、西南未申を人門、東南、辰巳を風門、東北、丑寅を鬼門とした。4つの方向があるが、もとの風水に鬼門が凶方位という信仰はなく、死者の霊が出入りする方向と考えられていた。一方日本においては凶方位として鬼門の信仰のみが残った。

鬼門と安倍晴明

日本の鬼門信仰を形作ったのは安倍晴明安倍晴明 - Wikipedia)である。安倍晴明は鬼門封じを得意としている。
鬼門を凶方位とするのは金神(金神 - Wikipedia)という方位神が関わっているとされる。
これは丑寅の方位を艮とも一字で書き、「ごん」と読めるから金という字にかさねて金神となったらしい。金神を最強の祟り神にしたのは安倍晴明だと筆者は主張する。それは、安倍晴明作とされる
という⚪︎⚪︎書物に金神に関する記述がある。
ただ、この書物が安倍晴明作というのは怪しい話だとのことだ。
また、金神は道教にも神道にもあらわれないらしい。

鬼門除け

こうした鬼門への畏れから鬼門除けと呼べる手法が数多く生まれた。
寺院などでの鬼門除けの手法としては
鬼門堂を設ける
五重塔や三重塔を、鬼門の押さえに立てる
という手法がよくとられる。

御所の鬼門封じ

天皇がおわす御所には多数の鬼門除けが施されている。
鬼門の塀の角をかけさせることで鬼門の方角にあたる箇所をなくすという方法。
御所の猿が辻(猿ヶ辻 - Wikipedia)。
御所の鬼門の守りとして寺院を建てる。
下鴨神社延暦寺
裏鬼門には石清水八幡宮

また筆者は晴明神社もなんらかの御所の守りに関連しているよではないかと推察する。
晴明神社はよく晴明邸のあった場所と言われるが、筆者は泰山府君祭に関係しているのではないかと言う。
https://kotobank.jp/word/泰山府君祭-1181839

江戸城の鬼門封じ

江戸の表鬼門の封じは神田明神浅草神社
太田道灌が創建した柳森神社も鬼門守護。

浅草神社は、徳川幕府が三社権現として鬼門守護とした
現在では社名変更で浅草神社となっている。

一方の裏鬼門は山王日枝神社である。
上野東叡山寛永寺は鬼門ではない
天海僧正の目眩し
名前も東の比叡山としているのでいかにも鬼門守護にきこえる
風水断ちを避けるためのカモフラージュ
増上寺も鬼門軸からずれているが、これもカモフラージュ
さらに水戸徳川は鬼門守護としておかれた。

上野東叡山寛永寺は鬼門ではない
天海僧正の目眩し
名前も東の比叡山としているのでいかにも鬼門守護にきこえる
風水断ちを避けるためのカモフラージュ
増上寺も鬼門軸からずれているが、これもカモフラージュ

将軍後継に水戸を除外したのは鬼門封じの役割があったからである。
慶喜は水戸出身で一橋家の養子になることで鬼門封じの水戸出身者であることをさけたが、最後の将軍になった。
一橋家の邸宅は江戸城本丸の鬼門にあたるらしい。

桃太郎と鬼門

桃太郎は鬼門信仰がもとになっている
鬼門つまり丑寅
反対側が申、酉、戌。
鬼門封じである。
鬼門よけの桃の木もこれがもと。もとは日本神話のイザナギイザナミ
ja.wikipedia.org

金神信仰

金神は、祟り神として畏れられたので日本人の考え方と源流にある御霊信仰の考え方により信仰の対象になった。

金光教は金神を救済の最高神とした。
大本教も金神の信仰がある。
ただ、一般習俗からは消えて鬼門のみが残ったとのことだ。

来訪神

2018年ユネスコ無形文化財日本の来訪神が登録された。来訪神の多くは、鬼の面をつけていて、人々を脅かしたら追いかけますと言う設定の祭りが多く、東北から沖縄まで広範囲にわたっている。

ここまでが登録
他にも

来訪は海だけでなく山奥、見しならぬ世界
異世界、異次元からの来訪
海ならば
古今著聞集 最古の鬼の姿の描写を記載
漂着した異人、水死体が鬼となったのかも
山ならば神奈備、信仰対象の山から

「まれびとなる鬼が来た時には、出来る限りの款待をして、悦んで帰つて行つてもらふ。此場合、神成は鬼の去るに対しては、なごり惜しい様子をして送り出す。即、村々に取つては、よい神ではあるが、長く滞在されては困るからである。だから、
次回に来るまで、再、戻つて来ない様にするのだ。かうした神の観念、鬼の考へが、天狗にも同様に変化して行つたのは、田楽に見える処である。」(折口夫「鬼の
話」)

怨霊から鬼 能楽
田楽 般若
怨霊と鬼が一緒になったのが能楽、田楽

折口ふみお
鬼の話での鬼の分類
土地の精霊
常世の神
祭、芸能の客神

それに加えて
まつろわぬ神
縄文人の族長、首長 宗教的権威でもあった
ナグサトベ
ニシキトベ
エウカシ
ヤソタケル
ナガスネヒコ
神殺しが征服の象徴

まつろう神 とは弥生神
まつろわぬ神 とは縄文神

まつろわぬとはまつりに参加しない
転じて中央の意向に従わないとなった

土俗の神がさまざまな姿でつたえられたのが妖怪ではないかと推察している

天狗とはもともと古代中国で流星、彗星のことを、よんでちた
山の怪異は天狗と結び付けられた

河童

カカシ一本足の土俗神
田の神 山の神という一年のサイクル
古事記久延毘古として登場
「久処毘古は、今に山の曾冨騰(そほど、かかし)といふなり。此の神は、足は行かねども、ことごとくの下の事を知れる神なり」(『古事記」より

熊野信仰について

縄文信仰を色濃くとどめている
ゴトビキ岩 天の磐盾
は遥か古来からあって、信仰対象だったのではないか。
ja.wikipedia.org


熊野神社
本宮 14柱
速玉 19柱
那智 17柱
祀っているが後から合祀されたのではなあか
もともとの主祭神
本宮 家津御子大神
速玉 熊野速玉大神
那智 熊野夫須美大
記紀に登場しない。

古くは本宮と速玉のみであった。

那智 熊野夫須美大神は古事記 熊野久須毘命
日本書紀 熊野くす日命 が該当するという説
むすひ(産霊)が転じたのではと筆者はいう

家津御子大神とは女神 社殿の千木が内削ぎ
速玉大社所蔵の絵は男性を象る
ケツ・ミコでミコとは巫女を表す
別名の美御子の美も女性神の示唆
ケツとは御饌津神のケツであり
食物のという意味
この地でしんこうされていた縄文の食物の神
流域に恵みをもたらす熊野川の化身

熊野の語源
古事記伝 クマはコモリ(隠)の義
古史通或問はカミノ(神野)の転

大神神社の信仰について

オオモノヌシは丹塗りの矢に姿を変えて流れを下り、勢夜陀良比売を懐妊させる。そして生まれたのが神武妃(賀茂神話と相似であるのは同一の神であるとの示唆とも考えられる)。
倭述述日百襲姫は夫のオオモノヌシが夜しか姿を見せないので姿を見せてほしいと頼む、すると小さな蛇の姿で現れる。驚かないと約束したにも関わらず驚いたため、オオモノヌシは恥じて三諸山(三輪山)へ戻ってしまう。倭迹迹日百襲姫は箸で女陰を突いて死ぬ。それゆえに倭述述日百襲姫の墓は箸墓古墳と呼ばれる。
いずれの伝説も「女陰を突く」点で共通する、これは女系による血族の暗喩。娘を神武の皇后にする、つまり神武を娘婿としてヤマトに迎えて、ヤマト王権を継承させることへの布石だと筆者はいう。

オオモノヌシは三輪系統の神社でしか祀られていない。
通常は古い信仰は他の地域に広がって祀られていくので広い範囲で崇拝されていることが大いにも関わらずである。
蛇信仰は土俗神、縄文神の特徴である。オオモノヌシが白蛇なのは古い神の証左。

オオモノヌシとは偉大なる物部の王の意味。
偉大なる物部の王とは「長髄彦」。
ja.wikipedia.org
本来の名は登美能那賀須泥毘古、登美毘古(とみのながすねひこ、とみびこ)である。
ニギハヤヒが降臨した鳥見白庭山(現・生駒山)を本拠としていたことによる名前
長髄彦なので祟り神であり鎮魂されている。神宝はあめのむらくものつるぎ。
御霊信仰の原理。
三輪王朝は長髄彦王朝のことをさしており、大神神社はその鎮魂のための神社。
オオナムヂの鎮魂のための出雲大社と同じ性質である。

まとめと感想・疑問

本書での鬼という存在がどういうものかというのを主張をまとめる。
鬼とされたものにはいくつか類型が存在する。

  • 犯罪者・賊
  • 漂泊外国人
  • 水死体
  • 怨霊
  • まつろわぬ民=縄文人

このうち犯罪者・賊は山などに逃げ込んだ犯罪者たちが山からやってくる恐ろしいもの、怪異として伝えられることで鬼の伝説になったということだ。これは酒呑童子などの山に暮らす鬼の伝説の原因になっているのではないかということである。

漂泊外国人や水死体は海という異界からやってくるタイプの鬼である。日本という島国であれば漂泊した外国人はまさに異人として映ったであろう。あるいは水死体はどうしても見るも無残な見た目になってしまう。こうした姿が鬼としてとらえられたということである。

怨霊は上記した通り、天災や(当時の医学レベルでは)不可解な死、疫病などを人の祟りだと恐れたのが始まりで、後世に能楽の影響で角の生えた鬼と同一視されるようになった。

弥生(大和朝廷)vs 縄文という形で敗者となり、まつろわぬ民であった縄文人(宗教的権威、祭祀)あるいは縄文神が鬼に零落したとのことだ。もともとの鬼は福をもたらすかみであったが、大和朝廷にまつろわぬ存在としておとしめられた結果が今の姿であるということだ。東北に鬼祭の多いのは縄文が色濃く残っているからであるらしい。

以上のように鬼にはいくつかの類型が存在するも、著者がこの本のなかで特に取り扱いたかったのはまつろわぬ民=縄文人としての鬼である。
ここで疑問がわいてくる。まつろわぬ縄文人を鬼としたのは弥生人からすれば見た目が異なった、生活様式や文化が異なったという点も挙げられようが、打倒した縄文人が怨霊として祟りをなすという側面があったはずである。というのは上記の通り、出雲や三輪といった神々は縄文の神であり、鎮魂のためにできた神社であると筆者自身が予想している通りである。
しかし筆者は怨霊のところで説明している通り、怨霊が鬼と同一視されたのは後世のことであるとしている。
これをそのまま受け取ると、能楽等が盛んになるまで、出雲や三輪の神々はどのような立ち位置だったのかという点である。扱い方の変化が記録に存在していないと妙である。おそらく存在していないだろうが、それをどうのように説明するのだろうか。
あるいはそうした神々の時代は漢字が存在していなかったために一番最初にのべた「おに」「もの」「かみ」を指す対象が未分化で怨霊的な意味と神もほぼ同一の「おに」であり「かみ」だったのだろうか。
そうなるとますます原始的な日本の信仰、神道あるいはかむながらのみちというものは自分たちに計り知れないものを祀るというだったという側面が強調される気がする。
日本人の根底にある「かみ」とはなんだろうかという考察が私なりに一歩すすんだような気がした。