があらんどう

伽藍洞です。

かぐや姫の物語をもう一回見て思ったこと

公開当初、映画館でみたときは駄作やと思ったが今回ドイツ滞在中にネットフリックスでダウンロードしてみて感じたのは名作とのこと。

かぐや姫という人口に膾炙して擦りに擦られたこの作品をもう一度演出とともに現代に通じる寓話として再び生み出した高畑勲はやはり一流であった。





宮崎駿に見るようなワクワク感というかアニメーションである、エンターテイメントであるという観点からは確実に逸れているが時代を超えて残すべき作品であることを感じた。

高畑勲かぐや姫の物語を語る上での思想はどこにあったのか、これを考えるとともにかぐや姫に隠された思想を読み解きたい。

まず、かぐや姫のバックグラウンドとなる幼少期(といっても1年足らずである)が
職能民である竹取の翁と媼。翁はさぬきのみやつこと造を名乗っているが、造とは思えない暮らしである。
これは本家がさぬきの造となっているからとしておく。そもそも本家のさぬきのみやつこだって怪しい名乗りである。つまりは都にのぼるにあたって造を名乗ったあるいはお金で得たのかもしれない。

近所に住む捨て丸にいちゃんをはじめとする人々は木地師である。
職能民であり、まつろわぬ民、下賎な生まれであることを意識させる。
このあたりもののけ姫におけるたたら場と同じイメージがあって駿と勲に共鳴するところがあるのだろうか。
身近な人間がまつろわぬ民であるということはかぐや姫が地上におりてきた意図と繋がる。
かぐや姫が月から地上に来ることを望んだきっかけ。
それは生命の濃さである。
生命が濃く、自然にあふれた、いわば強く生きていることを実感する世界、それこそがかぐや姫が月にいて足りないと思った点であり、最も求めていたことだったのだ。

象徴的に扱われている
鳥 虫 けもの 草 木 花
の歌
かぐや姫のバージョンでは続く歌が
巡り、巡りて 人の情けを育て
待つとし聞かば いま帰りこむ
となっている。
これは明らかに仏教的価値観が如実にでていて、五道を輪廻転生する衆生をイメージしていること。
また如来蔵思想が強く現れて、山川草木悉皆成仏とまでいわないが誰しも仏になる。
今は苦しい修行中かもしれないが輪廻転生の続きであることが示唆されている。

竹取物語にもあるように天の羽衣を着ると地上で過ごしたことを忘れるということが、やはりこの映画上の物語の鍵になっている。
忘れるという言い方がしばしば用いられているが、忘れるというよりも執着がなくなるということが本来の気がする。
仏教でいえば解脱するということは、一切皆苦五蘊盛苦の世界が自分の認識でしかなくすべては空である。
この認識すらも空であるという思想になる。
全てのものに執着することがない。
そんな月の世界を高畑勲は色の薄い世界、生命感に乏しい世界として描いたと考えてみよう。
最後に迎えにくる天の人々と如来の作画は明らかに朧げで色が薄い。
これは神々しさの表現であるとともに生命感のない色の薄い世界の表現であると読み取れる。

以上を踏まえると地球にて日々苦しみながらも生命力にあふれて厳しい自然の中に身を投じて生きるということと全てに執着せず解脱した世界を生きる月
この対比が高畑勲の表現したかった内容の一つであると言えよう。

この対比を元に京での暮らしを捉えると京は中途半端に薄い世界の代表といえる。
貴族の暮らしぶりは庶民に比べれば雅で安全である一方で生活感にとぼしく働いて日々の糧を得るという実感の乏しい世界である。
しかし人間であるが故に欲望は色濃く残り、かぐや姫は色欲と物欲の渦巻く貴族社会に置かれることになる。
かぐや姫はこれを偽物だと看破し、自分が真に欲していたものが
故郷での、苦しいながらも生きていることを強く実感する世界であることを思い出す。

ラストシーンの手前で捨丸と再開したかぐや姫が空を飛び自然、野山を駆け巡るシーンで作画にリアル感が増し、色彩が強く描かれているのがその証左であるともいえる。

また月という世界が(竹取物語成立時の人々の考えは別として)現代を生きる我々には遠くからは美しく輝きつつも近づけば砂漠の広がる荒涼とした世界であると知っている。

一方で映画のラストシーンで月に向かうかぐや姫が未練とともに振り返ときに見える地球が美しい青い星であることから高畑勲がどちらが素晴らしい世界と考えているかは明らかとも言える。

こうした視点で捉えるとかぐや姫が月から地上に落とされたという罰は悟りのない世界に憧れた、つまり執着したという罪である。
しかし、憧れたかぐや姫を地上に落とすのはむしろ望みを叶えたとも言え、罰になっていない。かぐや姫には渡りに船だったといえる。
ただ記憶をなくして地球にきたからかぐや姫の望み通りにことは運ばなかった、
そして期せずしてこの世界にいたくないと思ったばかりに愛別離苦という苦しみを執着に由来する苦しみを味わわなければならなかったという罰である。

そうするとかぐや姫が月から落とされる前日譚として次のようなストーリーが想起される。
一つのシナリオはかぐや姫に地球が、悟りのない世界がどんなに苦しいか試してみなさいという一種の戒めをかねた軽い罰だったというもの。
もう一つのシナリオは解脱した世界から落とし、輪廻転生を繰り返させるルートに半永久的におとすという重めの罰だったというもの。

ストーリーの流れとして明らかに前者であろうと言える。
かぐや姫が帝に抱きすくめられてここにいたくないと願ってしまったから迎えが来たということになっている以上後者のシナリオだとすると矛盾する。
すなわち仏との間でそんなに地球がいいなら試しに行ってみろ、ただしこんな世界嫌だと一度でも思ったら迎えに行く。あと向こうにこっちでのいったら全部記憶はなくなるから〜という取り決めがあったと考えられる。
上では前者のシナリオを軽い罰と書いたが、本当はこれこそがかぐや姫にとってむしろ本当に重い罰だったのではなかろうか。
私が思うにかぐや姫が真に望んでいたのは後者の罰であり、それこそがかぐや姫の望みを素直に叶えていると思えるからだ。

上記のようにかぐや姫が望んだのは生命力にあふれた命の濃い世界で生きること。
すくなくともかぐや姫の地上の生涯(半生)としてはこの望みは一年足らずしか叶えられず、奇しくも翁の働きによって失われてしまう。
もしも迎えが来ず帝の女御になっても、なる直前に自ら命を絶っても、次のチャンスが与えられたなら、そこでかぐや姫の望みは十分に満足されたかもしれない。
しかしワンチャンスしか与えられなかったために
真に辛い別れを経験しなければならなかったのだ。
しかしワンチャンスだからこそこれが仏教説話としての輝きと、もののあはれを感じさせる物語になっているとも言える。

この映画のもとになった竹取物語は月下女経という経典を翻案して作られているらしく仏教説話としての性格をおぼろげながら残しているのであろう。

しかしながら元の竹取物語に見えるのは仏教説話というよりも月という別世界の憧れた、常世の世界への憧れといった日本本来の死生観が現れている物語だと感じる。

高畑勲は日本人の死生観をむしろ無視して仏教的な性格を強くした上でそれをアンチテーゼとして用いるという構造的な転換を行なっている。
アニメ映画に執着しつづけた高畑勲流の生命賛歌がこの物語に閉じ込められているように感じる。
ちなみに余談ではあるが高畑勲が仏教を強くイメージさせているのは最初にかぐや姫が現れるシーンでたけのこが蓮華座のように広がるシーンからも明らかである。

話は少し戻りかぐや姫の異常な成長に関して少し述べる。
かぐや姫が急に成長するシーンはいくつかあり、
エッチなことを想起させるシーンで成長するという説もあるが、
エッチなことというよりもこの映画のテーマである生命力が強く顕れるところで急成長していると見た方が良い。
例えば赤ん坊になった後、最初に急成長するのは媼の授乳シーンである。
赤ん坊が母親から母乳を吸うという生命力あふれるシーンで2度もかぐや姫は急成長する。
(2度媼が急に重くなりましたと言う)
また、この映画には授乳シーンが他に2回もでてくる。
一つは猪の授乳シーンであり、もう一つはラストに近くなって捨丸の子供が母親に授乳されるシーンである。
高畑勲が授乳に対して強い思い入れがあることは疑いようがない。

さらに授乳シーンの直後、桜の花が芽吹くシーンでかぐや姫はまた急に成長する。これも、花が咲くと言う現象に生命力を、強く感じさせるからである。

次に急成長するのはカエルのシーンである。

これはカエルが交尾するという生命力にあるれたシーンから成長するとも読めるが、
直後に縁側から落ちるという死の危機を乗り越えることで成長するとも読める。
死や怪我は生命を脅かす存在であるからこそ、その存在が強く認識される時逆説的に生が強く意識される。

これと同様に猪に突進されてすんでのところで捨丸に助けられるのも捨丸という男性に助けられて恋をして成長すると読めなくもないが、猪に殺されかけるところで九死に一生を得るというように捉えるほうが文脈的に自然であるといえる。

以上のようなかぐや姫体のの急成長は精神的なな成長も同時に起きており、人間的な成長のメタファーであると考えられる。
すなわち生命力に、あふれることで人間的な成長がもたらされるという高畑勲のメッセージと読むことが可能であろう。