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映画『箱男』を観て ー孤独と観測の物語ー 箱の印字に関する考察

安部公房の小説を原作とする映画『箱男』を観てきた。
原作は高校生の頃に一度読んだ記憶があるが、かなり昔のことで、内容はぼんやりとした輪郭しか残っていなかった。だからこそ今回の映画体験は、再読ではなく、ほとんど「再発見」に近いものだった。

 

コメディから始まる違和感

まず印象的だったのは、冒頭の軽妙さだ。
もっと硬質で観念的な入り方を想像していたので、どこかコメディのような調子で物語が始まることに少し戸惑った。だが、その軽さがあるからこそ、後半に進むにつれて立ち上がってくる孤独や狂気、存在の揺らぎがより際立つ構造になっているのかもしれないが、個人的にはあまり好きではなかったかも。

 

段ボールの印字の遊び心?

箱男の段ボールに印字された文字

「ARGON」

「タテ型洗濯乾燥機」

「MG-RX890」

これは何だろうか。

まずARGONという元素名、電子配置を思わせる図も書かれていた。アルゴンという元素は18族で安定な元素、いわゆる希ガスである。箱男はその形態も本人のメンタルもおよそ安定からほど遠いものである。本人が不安定であることの裏返しとしての希ガス表記なのだろうか。あるいは単純にアルゴンという名前が洗濯機のシリーズ名としてしっくりきたのだろうか。

次にタテ型洗濯乾燥機、箱男の入っている段ボールがもともと洗濯乾燥機のための段ボールであったことを示している。箱男がいつどこでどのようにこの段ボールを手に入れたのかは不明だが、この段ボールはもともと洗濯乾燥機のために生み出されていて、人用ではないという明確なメッセージを彼はまとっているのである。

最後のMG-RX890これは洗濯乾燥機の型番ととらえるのが普通だろう。ではこの型番になにか意味はあるのだろうか。素直に受け取るとするとMGシリーズ、あるいは略称MGというメーカーのRX890という機種だろう。しかし、それだけだとすると適当な文字の羅列に思える。

この型番で一つピンとくるとすればガンダムだろうか。初代のガンダムはRX78-2である。さらにMGで思い浮かぶのはマスターグレードだろう。つまり箱男はガンダムだというジョークだろうか。海外のコスプレイヤーがGUMDOMとペンで書かれた段ボールを被って決め顔している懐かしのネタ画像が元ネタだろうか。ガンダムのような装甲をまっとているという意味にもとれなくはないだろう。

あるいはそれっぽい型番を作っただけとも考えられなくはない。実際RX8901CEという電子部品は存在するようだ。リアルタイムクロック。それっぽい記号をつけているとうのも箱男というテーマにこれ以上なくあっているかもしれない。我々が見ている世界は記号、規格、ラベルだらけであり、その記号やラベルを通してのみ理解されるものにあふれている。箱男がのぞき窓からみている世界は我々の社会そのものである。

また箱男の極度に規格化され存在、個の人間の匿名性の表現としての型番かもしれない。

 

孤独のための箱

箱男は、孤独であるために箱をかぶる。
他者との関係を断ち、独立性を守るための段ボール。だが皮肉なことに、箱をかぶった瞬間から、彼は「見られる存在」になる。覗く者であると同時に、覗かれる者でもある。

物語の中では、覗きたいという欲望が露骨に描かれる。女性の足、箱の内部の視点、写真と映像の境界。視線の快楽と暴力性。さらに監視カメラという装置の存在が、現代的な意味合いを強める。
箱をかぶることは、世界から身を隠す行為であると同時に、観測者になることでもある。しかし本当に観測者になれるのか?それとも、常に誰かの観測対象でしかないのか?

境界の消失と回帰

印象的だったのは、家そのものが箱のような空間となり、二人の境界線が曖昧になった場面だ。物理的な壁が消え、内と外の区別が揺らぐ。それにもかかわらず、主人公は再び段ボールをまとう。
それは人間への恐怖なのか。あるいは、自らの孤独や疎外感から目を逸らすためなのか。

葉子の哀れむような視線が胸に残る。若さをまとった白本彩奈の存在感も印象的だった。彼女の透明感は、箱男の閉塞と対照的で、だからこそ痛々しい。

「一つの町に箱男はひとつ」というルール

奇妙なルール設定も興味深い。
箱男は町に一人だけ。存在の希少性は、アイデンティティの独占を意味するのか。それとも、孤独の唯一性を保証するための取り決めなのか。

サボテンのモチーフも象徴的だ。乾いた土地で水を蓄える植物。外界に対して棘を持ちながら、内側に生を保つ。箱男の姿とどこか重なる。

筋肉少女帯のサボテンとバントラインを思い出したり。

youtu.be

現実の混濁とメタ的ラスト

ノートに書かれた「現実」という言葉。
物語が進むにつれて、現実と記録、想像と事実がごちゃまぜになっていく。どこまでが本当で、どこからが虚構なのか曖昧になる感覚。デカルト的な「我思う、ゆえに我あり」という確固とした主体はここにはない。
むしろ自己は、他者との関係性の中で揺れ動く存在として描かれている。

そしてラスト。
私たち観客自身が「箱の中から物語を覗いていた」ことが示唆されるメタ構造。スクリーンという箱を通して世界を観測していたのは、箱男ではなく、むしろ私たちだったのではないか。

タイムリーな共鳴

ちょうど『攻殻機動隊 S.A.C.』を観ていたこともあり、テーマの共鳴を感じた。スタンド・アローン・コンプレックス――孤立しているはずの個が、どこかで同期し、共鳴してしまう現象。
箱男もまた、孤独を選びながら、都市や他者や観客とリンクしてしまう存在なのだろう。

孤独になるための箱。
しかしその箱は、世界と完全に切り離してはくれない。

パンフレットを買ってしまったのは、その曖昧な余韻を持ち帰りたかったからかもしれない。
観終わったあともなお、現実感の揺らぎだけが、静かに残っている。